(逢いたいんだ、どうしようもなく)




しんとした室内に、控えめながらカチコチと正確に時を刻んでゆく時計の音だけが響く。


宵闇に侵食された室内の中、ランプの灯りだけが橙色に際だってくるにつれ、夜も深まりをみせはじめていた。部屋の主はソファーに深く身を沈めたまま、パラリと本の頁をめくる。その後室内はまた静まり返り、ただひたすらに夜は更けていく。


そのあとどれだけ経っただろうか。
セザンヌは開いていた本から眼を離し、少し苛ついた様子で柱時計に眼をやった。うすぼんやりとしたランプの橙色に照らされた時刻は、すでに今日を過ぎかけている。セザンヌはは眉を寄せてひどく不機嫌な顔をした。
まともな人間なら、こんな時間に他人を訪問しようなんて思うわけない。
というか何も言わずに、来るといった時間に来なかったのはずいぶん礼節に反することだ、が、同時に私もあいつを待っていてやる筋合いはないということだ。もっとも私はいつ寝ていつ起きようが構わない身分なのだけれども。
セザンヌはパタンと本を閉じ、手元のランプを消した。あたりはふっと闇に包まれる。息ひとつ吐いて、彼はカーテンを引くために立ち上がった。


窓から差し込む月明かりが、床をほんのり青白く照らしている。
それに影を落としているのは、外からのゆるい風に遊ぶカーテンの白い布地だった。無造作にそれを掴み、セザンヌは外を見やった。
このアパルトマンと、街中へ通じる並木道はほぼ直角に接している。 等間隔に並ぶ黒い樹木たちが、一斉にさぁぁと影を揺らしてはざわめいていた。共鳴するように、手にある薄いカーテンがぱたぱたと動く。
群集のざわめきにも似たさんざめく木々の向こうから、見慣れた細い男の姿がひょっこりと現われでないかと、セザンヌは無意識のうちに探していた。その後彼は長いこと自分の無意識下にい、またそれに気づいたときには、少し己を恥じてカーテンを引いた。


遠くから犬のほえる声が聞こえる。
「こんな真夜中に野犬か」
呟いて、彼は寝台に向かおうとする。するとまた外から吼える声が響く。
そして三度目、犬の遠吠えが聞こえたかと思うと、聞くたびに咆哮がだんだん人間のそれらしくなっているのが判り、セザンヌは嫌な予感に背筋が凍った。
彼は振り向くと一息にバァン、と窓を開け放った。


「うわぁぁ、あ」


外にいた細い男と見事に目が合う。ぱっくりと大口を開けていたのは紛れもなくルノワールその人で、セザンヌを見て叫ぶのをやめ、ただぽかんと目を丸くした。
「ルノワー、ル、」
セザンヌは頭に手をやってため息混じりに呼びかけた。
「いいかげん来ないかと思ったら、今度は犬みたいに外で叫んでいる。近所迷惑だ、それにそれ以上私に心労をかけるのはやめたまえ」
「いやらね!」
へらりとルノワールは顔を崩す。頬がほとんど朱色に染まっていた。
「酔ってるのか君」
「酔ってなんか、ない、よ!」
「……判った。じゃあ部屋に上がってこい、そこでわめかれちゃたまらない」
事実上の敗北宣言だった。ルノワールはこくりと頷いて、おぼつかない足取りで階段の方へ走っていく。
セザンヌはまたため息をひとつつき、玄関扉の鍵をひらくべく窓に背を向けた。




泥酔しきったルノワールは当然まともに階段を上ることなんてできず、躰をあちこちにガンガンと打ちつけてしまう。見ていられず手を貸した。
「こら、腕や手が傷ついたらどうするつもりだ」
「ふふん」
セザンヌの肩の上で、ルノワールは機嫌よさそうに目を閉じた。


「えへへ」
ルノワールは玄関先でまた笑った。
「おそくなって、ごめんね」
「何処へ行ってたんだ?」
ズルズルと細い躰を部屋の中に引き込んで、一度消した明かりをつける。
とりあえず椅子に座らせて、暖かいミルクティーを出してやった。
一口飲み、驚いてルノワールは言った。
「うわぁ、すごい、あまくておいしい」
そしてすぐ空になったマグをセザンヌのほうに押しやると、自分はテーブルの上に突っ伏して眠りこけてしまう。上から渋い声がする。
「なんで君は人の家に来てすぐ寝るんだ、ここは君の家じゃない」
「しってる……」
苛々した口調でセザンヌは問う。
「じゃあ何で?」
「ここが僕んちとおなじぐらい……僕にとってはくつろげるからだよ、セザンヌ」
だんだん声が尻すぼみになっていくかと思うと、唐突にルノワールの頭がカクンと動いた。
腕に埋もれた頭にそっと耳を寄せると、クークーと安らかな寝息が聞こえる。



ふいにルノワールはぱちりと目をあけた。そしてまず驚いたのは躰を包む感覚だった。
さっきまでかたい椅子に座ってテーブルに突っ伏していたのに、いつのまにかやわらかい寝台の上に寝かされている。
サッと躰を起こすと、かかっていたタオルケットが落ちた。
周りはまだうす暗い。目をしばたいて見回すと、さっきセザンヌが僕を呼んだ窓辺があることに気づく。立って近づいてみる。街の端っこがもうぼんやり明るくて、どうやら日の出の時間みたいだ。
「ルノワール」
振り返った。セザンヌがいる。
「あ、おはよう、セザンヌ。ベッド貸してくれたんだ、案外優しいね!君!」
セザンヌは黙って首をこきこき動かしながらやってきた。ソファーかどこかで寝て、寝違えでもしたんだろうか。
「もう朝か」
「でもまだ微妙な時間だね」
いつもの僕ならまだ寝てるよ、とルノワールは笑った。
「ルノワール、」
無邪気な横顔を見ながらセザンヌは声を漏らす。
「え、どうしたの」
「君が遅くなった理由を聞きたい」
「ああ、そんなことか。 …べつに深い理由なんてないよ? ほんと。
 ただ夕方、カフェでモネたちと喋ってたらつい長くなって、ああ遅れたなと思って」
「私も行ったが、なぜか君は見かけなかったな」
「……っ〜!」
ルノワールは唇を噛む。顔が赤い。
「わかったよ! 話すよ本当のこと! いい、僕は君に抱かれた夢を見たんだ、女になって。気持ち悪いだろ? 僕も自分のことが信じられなかった。 そんなん潜在意識で願ってるなら死んじゃったほうがましだ。 でも…すごいよかった。 忘れられなくて、本当に忘れられてないなら、もう後戻りはできないなと思って、…女の子と遊んできたんだ」
とルノワールは複雑な面持ちで一息に言い、長く息を吸った。
「…ルノワール君、君は予想以上に罪作りな人間らしいな。 君にとっては遊びでもその子にとっては違ったかもしれない」
「それは…そうかもしれない。 本当に悪いことをしたと思う。 僕が何かすることで慰めてあげられればいいんだけど」
「そんな安い憐憫の情を欲しがる女なんか君は好かないだろう、それこそ遊んでやる気も起きないぐらいに。 そうだな、偽善でもその子を満たしてやりたいなら結婚してやることだ」
「……まだ考えたくないんだ、それは。だから言わないで」
聞きたくない、というようにルノワールは耳を手で覆った。
彼の揺らいだ瞳は、差しこんだ暁に照らされて燃えるように赤い。
「第一僕は最近、女の子よりも君のことをいっぱい考えてる」
「それは性的にか?」
セザンヌはククッと笑う。ルノワールは眉根を寄せた。
「それもあるかもしれない……。でもそれだけじゃないよ。 君のこともっと知りたいんだ、もちろん…それも含めて」
「ソレか?」
「ソレだよ」
ルノワールは俯いて答えた。
「…今?」
「今はまだ…たぶんしないほうがいいと思う。 僕は疲れてるし、たぶん君もそういう気分じゃない」
「私は、…」
セザンヌは言いかけて、
「それも悪くないと思う」
と口元を上げた。
「君の事は嫌いじゃない」
「……嬉しいな」
ルノワールは少し笑って、欠伸をした。
「ああやっぱりまだ眠いや。 寝るねおやすみ」
「また私の寝台を使うのか」
「いいじゃないかケチ! そんなに寝たいなら、一緒に寝れば」
ごそりとタオルケットの中にもぐりこむルノワール。
それをじっと見て、セザンヌは何か考えるように髭を撫でた。


その後二人は一つの寝台の上で、シーツに絡まりながら、太陽が中天の座につくまで眠りつづけた。








微妙に裏と続いてる…?ごめんなさい

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