あかねさす

 

 

「少なくとも、この世界の終焉を願うぐらいには、あなたのことを想っていますよ」
それを聞いて、最初、芭蕉は不満げな表情を浮かべた。
曽良はふと横を見、芭蕉の表情に気付き、尻でも蹴り上げてやろうかと思ったがやめにして、唯「気に入らないようですね」と呟く。
「当たり前だよ! 嫌に決まってるじゃないか! 世界の終わりなんて、嫌なもの以外の何ものでもないよ」
「そうでしょうか、」
そうして小首を傾げた。続けて、僕にはわかりませんとさらに白々しい口調で曽良はつけたした。そして自分と同じ響きを持ち、自分のはるか頭上に横たわるそれを見上げた。
時刻は夕暮れ。空には、千切られたかたちの雲が、朱色や紫に彩られ、すでに黒い影そのものと化している山の向こうへたなびいていく。
その情景に曽良は、大昔の随筆の一節を思い出して、声に出してみる。
「秋は、夕暮れ」
それは思った以上に、しみじみとよい雰囲気で響いたようだった。
これでも一応の俳聖である芭蕉は、弟子の一言にさんさんと目を輝かせて飛びついた。
「曽良君もなかなか風雅だね!さすがは私の弟子」
「いいから」 曽良は先を促した。
「…秋は、夕暮。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへあはれなり」
すると、まるで狙い済ましたように、何羽かの鳥が山に向けて飛んでゆくのが見えた。
美しい、と曽良は思う。
「綺麗だと思うんだよなぁ、こういうの、」
芭蕉も目を細めて同じことを言った。
図らずも師匠と同じ琴線に触れられたことを喜ばしく思う。
「百年先も残っていたらいいんだけど」と、芭蕉はへらへらと笑う。
もう少しましな表情をすればいいのに、苛苛する。しかし曽良は、芭蕉の前ではつとめて無表情を保とうと決めていた。
「このあたりは洪水が多いから、雨量を捌くために来年にも運河の工事が始まると、宿の女将から聞きました」
「じゃあ、もうここと同じ景色は見られないね。残念だなぁ」
芭蕉の言葉に、曽良は心に少しの綻びを感じる。
失われゆくものが、こうやすやすと手放されてしまってよいものなのか。得体の知れない衝動にかられ、曽良は芭蕉の背中に後ろ蹴りをかました。ボゴンと鈍い音がして、芭蕉はうめいて背中を丸めた。
「いってー!! 何するの曽良君」
「何にもしてやいませんよ」
「う、嘘だ! だってここ見てよ、痛いんだよ! 君に蹴られた以外に考えられないでしょ!?」
曽良は、泣きながら背中を見せてくる芭蕉を、黙って見下ろした。
「芭蕉さん、」
「へ?なに曽良君。 謝る気?へーだ許さないんだからねっ!いくら君が何回土下座し」
「いや謝る気はさらさらないですが―」
「ないのかよ!」
「―悔しくないのですか。仮にあなたが詠んだ景色が消えていってしまったとして」
ううん、と芭蕉は首を振る。それは曽良にとって意外な反応だった。
「いいかい曽良君、俳人は、」
身体を起こすと芭蕉は曽良に偉そうに説いた。
「俳人は、絶景の中に真実を見るんだよ」
「真実?」
意味が分からなかった。 曽良は怪訝な表情で聞き返す。
「そう。 真実を見るんだ」
呆けた鸚鵡返しの返答に苛立ち、そしてそれはどういうことですかと聞き返すと、「君にもいつかわかるよ」とだけ芭蕉は答えた。
久方ぶりに考え込み、もやもやとした表情の曽良を尻目に、芭蕉は
「あ、また、鴉が飛んでる!」と無邪気に空を指差した。

僕にとって、愛すべきこの世界が、ひとつづつ失われてゆくのは恐怖そのものだった。だからいっそ、すべて一気に失われてしまえと願った。そうすれば全てはその時のままに残るだろうから。

上辺だけにとらわれて、たった17文字の中になくしたくないものを閉じ込めておこうとするうちは、きっと師匠に追いつけない。
曽良はほっ、とため息とも感慨ともつかない息を漏らすと、やがて足を速めて、頼りない芭蕉の背中を追った。

 

 

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