雨飴降れふれ


午前中から降りはじめた雨はやまず、昼を過ぎても辺りには雨音が低く響き続けている。
淹れたての紅茶を飲みつつ、窓辺から外を伺い見ると、灰色の厚い雲が街を覆って暗く影をさしていた。
今日の午後には助手と会う約束があったものの、私は外出するのを極端に憂鬱に思いはじめる。

そんなとき、不意に部屋のドアがノックされた。
少し驚いて慌てて玄関に行く。戸は湿気を吸い質量を増して軋み、その扉の向こうには、グレーの外套に身を包んだ助手がいた。
「こんにちは、」
ワトソン君はそういって笑い、私は戸惑う。
「わざわざ、来てくれたんだ」
「ええ、こんな天気ベルさんは嫌いでしょう? 今日の雨は特別生温いんですよ。
 どうせ降るなら凍ってしまうぐらい冷たいのが僕は好きです」
「同感だよ」
少しの微笑、その後に私は部屋に彼を迎えいれた。

彼はじとりと湿った外套をハンガーにかけて、私とうす汚れたテーブルに向かいあって座る。いれておいた紅茶がポットにまだ残っていたので、新しいカップに注いで彼に出した。
私の分はというとさっきの場所から取って来て、また改めて二人で座った。

「ポストに手紙が溢れていましたよ」とワトソン君は教える。
「大方大学か研究機関からの出頭依頼だろうね」
渋る気持ちが見え隠れしたのか、彼は探るように訊いた。
「面倒なんですか」
「……ああ」
それを聞くと彼は苦笑して、カップに口をつけた。
「じゃああれは捨てておきましょうか」
「頼むよ」
彼は黙って頷いたのち、わずかに俯いてティースプーンでカップをかき回すと、それは上品な仕草でレモンを搾り入れた。

何気なしに顔をあげて、キッチンの小窓から外をのぞいてみる。曇っていて奥行きはうかがえない。ただ常に窓にへばりつくようにある雑木が、極彩の青葉を雨粒に打たせて大きく上下していた。
「どうせこの長雨があがるまでは何もする気は起きないだろうから」
不意にかちゃんとカップを置く音がして、ふとそちらに向くと、ワトソンの澄みきった蒼い瞳と目が合う。
「察します。 湿り気のある日は僕も好みません。 資料や用紙も湿って使いにくいので」
「実に研究生らしい意見だね、」
「この雨が止んだら、一緒に作業場へ行きませんか」
「いいよ」
ワトソン君は私のティーカップを引き寄せると、レモンを搾って軽くかき混ぜた。
「その手紙を出した、ほかの人達のことは、今はどうでもいいのです。ただ僕達がしなければならないことは一つ―」
「電話の完成。」
私が言ってしまってから、ワトソン君と目が合って微笑をかわす。
彼はいつになく照れたようにはにかんでみせ、カップをこちらへ押し戻した。
「どうぞ、レモン入りもいいですよ。ストレートもいいですが」
「ありがとう」
素直に礼をいってカップを取る。
つんとした酸っぱさが喉を通るもので、確かにこれも美味しい。

あの手紙たちは、今も雨にじとりと濡れているのだろうか。
なにぶん屋根が半壊しているポストだったので、開いた穴からぽとぽとと雨粒がおちては、かさんだ手紙の山に染みをつくっているに違いない。
(湿ってしまったら暖炉にくべるわけにもいかないな)
なんて少し非道いことを柄にもなく思う。

彼もいつしか頬杖をついてぼんやりと外を見ていた。
「止みますかね」
誰に宛てたというわけでもない、ぽつりと呟いたワトソン君の言葉を、気まぐれでなんとなく拾い上げてみる。
「止むよ、……まあ、確証はないけど」
止まない内でもいいさ、いずれ出ていこうよ。
それを云うと、ワトソン君は向こうを向いたままぼそりと言った。
「生温い雨に濡れると風邪をひきやすいんですよ」
わかってください、と消えそうな声で彼は呟き、そしてまた押し黙る。
彼の意図が分かってから私は何も言えず、ただ驚きと、そして頬の熱さがじんじんと高まってくるのだけが現実のものとして理解できた。
動揺してあちこちに目を泳がせたのち、私の視線はふいに彼の襟足を捕らえた。
いつも艶のある美しいブロンドの髪先が、濡れて黄土色に染まっている。
そこで、鈍感な私はやっと気づいた。
「ワトソン君、君だって濡れてるじゃないか!」
彼は俯いて首を振った。
「僕はいいんです。……ただベルさんが外に出て作業場まで歩く、その距離であなたが風邪を引くことが、僕には許せなかったんですよ」
彼が全部言うか言わないかのうちに、私は上気してガタッと立ち上がっていた。
「タオル取ってくるから」
また熱くなる頬を隠すように、彼にサッと背を向けて洗濯場まで歩いていった。
この破裂しそうな心臓の音が、バックグラウンドに響く雨音に紛れることを願う。
無意識のうちにぎゅっと握った手を、胸の上においた。

2007.2.17
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