リラが散っても

気付いたらもう、春だ。
プラムの葉の間から漏れ入った日差しが、テラスのテーブルに細かい光を落としている。
上着を着て外へ出たら予想外の暖かさに拍子抜けする、なんてどこか太陽と北風の昔話を思い起こさせるような天気が、すでにこの街にも訪れていた。昼下がり、カフェにたむろう二人の若い画家とて例外ではない。
セザンヌもルノワールも、着てきた上着をいつのまにか一枚脱ぎ、思い思い春の陽気に相応しい格好で、カフェのカップを啜っている。そして二人は暇を持て余すように、サロンの話だとか、物価の安い市場の話だとか、どこか旅行に行きたいと思ってる、なんていう取り留めのない話をし続けていた。
「僕はいつか南部に行ってみたいんだ。君はどう?」
ふわりと投げかけられた質問に、セザンヌは肯きも否定もしない。
ただいつものシニカルな口元にカップの淵を持っていって、
「私なら故郷に帰るときだろう。行きたい行きたくないにかかわらず、また近いうちに行かねばなるまい」
「そうか、君はプロヴァンス出身だっけ」
「エクス。ただの田舎町だ。何もない」
「僕にはちょっと羨ましいよ」
「君も来ればいい」
含み笑いをして向かいの男を覗き見る。
案の定、非常に悔しそうな顔をして唇を尖らせている男が一人。
しかし彼は意味を取り違えたのか、
「貧乏人なめんな! 僕だっていつかお金貯めて行くんだもんね!」
と言ってぷいと横を向いてしまった。
意図が外れた、という表情でセザンヌは気持ち程度に肩をすくめる。
「じゃあこんなところで油売ってないで、さっさと帰って制作したらどうだ」
「……痛いとこ突くなっ! 別にいいじゃないか、この良い天気の日に。一日くらい。」
まあこんな男でも案外自己管理能力はないわけじゃない、とセザンヌはそれ以上の忠告をやめ、「そうだな」とだけ呟いた。
もっともそれは、自分にも耳の痛い言葉だったのだが。


時間をかけて優雅に午後のお茶を楽しみ、それでもまだ陽が高くあることに気付いて、ルノワールは機嫌よく鼻を鳴らした。
それでも特に何かすると決めていたわけでもなかったらしく、どこか所在無さげに、通りのほうを向いて頬杖をつく。
淡いヘイズの瞳に、横で揺れる健やかなみどり色が影を落とした。
今にも眠りこけそうな瞬きを数回した後、ルノワールははふいに瞳に光を宿らせてから、
「ちょっと僕と一緒に来てくれない?」
と、向かいの男を見据えた。
「どうして君の用事に付き合わなければならん」
上着を取ろうとしていたセザンヌは最初、酷く不機嫌そうな表情を向けた。
スプーンを弄びつつ、彼はぽつぽつと云う。
「べつに。 用事ってほどのものでもないし。 ただ僕とおんなじように君も、暇そうだと思ったから」
「それで何が得られると?」
「何にも。」
妙にそこだけ自慢げだった。
ハッと嗤い、右腕に上着を掛けてセザンヌは立ちあがる。
「莫迦莫迦しい、付き合いきれるか」
そして伝票へと手をのばしたが、それは先にルノワールによって掴みとられる。
指先で紙をひらつかせて、意地悪そうに笑ってみせた。
「少なくとも家のなかに篭って煮詰まるよりは数十倍、健康的なんじゃないかと思うんだけどさ。」
無言で紙片を取り戻そうとして、その手首まで掴まれた。
「不思議だ。君の経済事情は知っているのだが。君がこんな妙な行動を起こすなんて不可思議でしかない」
「お金で買えないものってあるじゃないか」
空いている左手でセザンヌの腕をとると、小さな笑い声をたてて彼は立ち上がった。
セザンヌは瞬時にそれを振り払ってものすごく不機嫌そうな顔をしたが、それでも立ち去りはせずに彼が戻ってくるのを待った。




「僕が初めて恋をしたとき、ちょうどこんな風にリラの葉が揺れていた」
白く光る石畳の両端を、風に揺れるリラの葉陰が飾っている。
二人の画家は、間延びした影を引連れて、花の香りただようその通りを、どこへ行くでもなしに歩を進めていた。
セザンヌは嗅覚を刺激し続ける花の匂いに幾分顔色を悪くしつつ、隣からぽつぽつと語り続けられる昔話へと耳を貸していた。
「今でもありえないぐらい好きだったんだよ。本当に、その娘しか見えなかった。」
ルノワールは道の先の、さらに先を見るような遠い目をする。
色の抜けた前髪を、微風が揺らした。
「それを私に語って何になる?」
「言っただろ。な、ん、に、も!……って。」
彼はさも愉快そうな声を立てた。
「過去はもう過ぎ去ったことで、それを知ったことで現在には何の影響も与えない。
 それでも僕は、たった今蘇った過去の思い出を、今、君に語りたいと思うんだ」
そして彼は、道の真ん中に立った。
一陣の風が吹き抜ける。




――その子は、僕の家のはす向かいに住んでたんだ。
それは小さいけどたくさんの花に囲まれた可愛い家でさ、よく眺めてたんだ。
でもね気付いたら、そこの家の子も可愛いな!と思い始めたんだよ。それはいつごろだったかな?
あれ、その子が可愛いから、その子が住んでる家さえも可愛いって思い始めたのかもしれないな。
まあそれはどうでもいい話。
とにかくその子は可愛かった。女の子でよかったよ、本当に。


細いおとがいに白い肌。頬はわずかな薄桃色。
髪と瞳の両方ともに、光に透ける淡いへーゼルを抱いた少女は、その瞳で優しく笑いかける。
落ち葉の積もった晩秋の庭で、少年は人知れず恋を知り、その気持ちは大切な宝箱の中のなかにしまわれていた。
日々の中で少女の姿をふいに見かける。
それだけで幸せになる日常が続きながら、やがて季節は移ろってゆく。
ある日の朝。
小さな家に似つかわしくない古びた大きな馬車が一台、少女の家の前に止まっていた。
玄関から荷物を抱えた人々がせわしなく出入りしている。
窓辺からそれを見かけたすぐに少年は悪い予感を察知して、すぐさま階段を駆け下りると、半ば本能的に家を飛び出していた。
少年が抱いていた感覚はひとつしかない。それは既視感。
ここへ越してくるとき、彼は同じような馬車に乗って来た。
だから。今度は。


――路地には影を落として雲が渡っていった。


少年は庭の木の下で、悲しげな瞳を落とす少女を見つけて声をかける。
顔を上げる少女は寂しそうな顔をしながらも、少年の声をきいてわずかに微笑んでいた。
そして少女は思いついたように口を開く。
『最後だから何でも言って、叶えてあげるから』
いつもと変わりない優しい声に、少年は勇気を振り絞って願いを告げた。
そうして少女と少年は、家具が次々と運び出されていくあわただしい喧騒の外、リラの茂みに隠れるように指先を絡め、ただ密やかに口付けを交わした。
最初は少女のほうから、母が子にするようなキスを。
そして次に少年が、伸び上がるようにして少女の唇を奪った。
やがて二人の間に流れる熱い呼吸。


「話しておいてなんだけど、」
ルノワールはリラの茂みに近づいて、青い葉を触った。一枚一枚。
「今ではあれが恋だったのかと思うよ。最近では単なる憧れだったんじゃないかって。
 でもそれでもね、」
ぷちんと音をたてて白い花のひとつを取った。
「ものすごい好きだった人なんだよ。ただ、その好きがどんな種類の好きなのかははっきりとは分からなくなっちゃった、というだけの話」
鼻に近づけてくんくんと匂いを嗅いだ。そしてうん、と頷く。
「だからね、言い換えれば」
きっぱりとした彼の瞳が大空の下に光っていた。
「これが僕の初恋だって言ってもおかしくないと思うんだよ」
そして千切った花を、セザンヌの手の中に握らせた。
「そう言ったら君は嫌がる?」
さながら香水の瓶を開けた時のようなくらくらするほどの濃厚な香りが指の間から匂いたち、セザンヌは眼を顰めた。
「ものすごいしかめっ面してる」
「当たり前だろう。気持ち悪い。……ああ、この言葉はこういうときこそに使うべきだな。じゃあもう一度言ってやろう。気持ち悪い」
そんなに言うことないじゃないか、とルノワールは不服そうにぷいと来た道を見返る。
そして風が吹く。
濃い匂いは向こうへと押し出されて、爽やかな風がたゆたった。
段々とその横顔からは、怒りや不満そうな表情が次第に解けていった。
かわりに眼が大きく開かれて、顔がかぁぁっと赤く染まった。
「……ほんとにそうだね。なんて恥ずかしいこと言ったんだろう僕。お願い、忘れてよ!」
「パリジャンとしては合格だがな」
この上なく面白い玩具を見つけた子供のように意地悪くセザンヌは笑い、対照的にルノワールは赤くなってうつむいていた。
「お願い、」
「初恋、初恋か……」
「忘れてってば!」
「だが、……その言葉が今の私にとてもしっくり来るのは、はてなんでだろう、ルノワール君?」
「え」
口をぽかんと開けてルノワールは意外そうに言った。
「君もなの?」
シニカルな横顔がにやりと笑う。
「さあ、どうだか」
何もないといえば何もないし、あるといえばある。過去とは得てして曖昧なものだ。
ただ、少なくともこの瞬間は、はっきりと輪郭を持ってここにある。


「ルノワール」
どちらからともなく互いの背中に腕が回る。
噎せ返るほどの匂いの中、二人はきつく抱き合って唇を重ねた。


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(07.04.22)