Le Chocolat


街角でバッタリ彼に出くわしたとき、セザンヌは最初それがオーギュスト・ルノワールだとは気づかず、てっきり道化師か何かかと思った。
ルノワールは腕に大きすぎる紙袋を抱えていた。
袋からはピンク色の銀紙に包まれたステッキや、赤や黄色など色とりどりの大小さまざまの小箱が見え隠れする。その形も四角だけじゃない、ハートの形などいろいろあるように見えた。
そしてその華やかな紙袋の向こうに、ふわりと立った銀髪がある。
あまりに人目をひくので、すれ違いざまにセザンヌは
「君は道化師に転向したのか?」
と訊いた。
ハッとした顔でルノワールは目を大きく開き、
「あ、セザンヌだ、なな何いってんの? どうして? そんなに僕の顔おかしい?」
「それほどでもない、顔はいつもと何ら変わらないが」
ただ、とセザンヌは彼の鼻先がひどく赤くなっていることを指摘し、さながらトナカイのようだなと揶揄した。ルノワールは巻いていた赤と白の縞模様のマフラーを鼻の先まで引き上げて、シュンと鼻を鳴らす。
そのときバランスが崩れて、彼が抱えていた紙袋からひとつ、緑の小箱が落ちた。
「あ」
それをセザンヌが拾った。ルノワールはとり返そうとセザンヌに手を伸ばす、するとまた一個、今度はレースに包まれた上品な小袋が落ちる。それも拾いあげてセザンヌは二つを見比べた。
しかしその共通点はやけにすました飾りつけが施されているということだけだったので、セザンヌはやがてそれらを紙袋の上に返した。
「君がここまで盛況なのを初めて見た。それは雇い主から恵んでもらったのか?
 それとも今日は君の誕生日か何かだったのか」
それでも祝う気は全然ないが、というニュアンスをこめた発言だったが、ルノワールは考えるように首を傾けてみせた。
「うん……ちょっと惜しい。誕生日は近いけど、今日じゃない」
「…じゃあそのテカテカ光る玩具のようなものの山は何だ?
 私は君がこれから大道芸でも始めるのかと思ったが」
「だから違うって!  …これはみんなチョコレート。 僕が懇意にしてるブルジョワ階級の娘さんとか奥さんたちからもらったんだよ!」
得意げに言う意味がわからなかった。
久しぶりに聞いたその言葉を、ぽつりと呟く。
「チョコレート……」
実のところ、セザンヌにとってのそれはただの苦いものの塊というイメージしかない。
子供のころ、誰かからの英国土産で貰ったチョコレートをかじったことがある。
ただでさえ子供時代、苦いものに対する耐性のなかった時の事であるから、それ以来口にする気さえ起こらなかった。あの口に広がる渋くて苦い味を思い出したのち、隣で浮かれているルノワールを見ると、どうしても変な気分になった。
「ねえ、いいだろ、チョコレート。 セザンヌも欲しい?」
「いや私は……遠慮しておく」
本心からいらないといったのに、この馬鹿画家ときたら、
「あ、どうせ嫉妬してんだろ!僕のほうが君より、女の子からもててるんだからね」
意味がわからない。
なぜその苦い塊と、女からの人気が関連するんだ?おかしな流行もあったものだとセザンヌは思う。
とはいえ気になるといえば気になる、どう聞き出してやろうかと思っていたら、ふいにルノワールは小走りで通りを斜めに抜けていった。その先には小さな公園がある。
「君、」
どうしたんだと思えば、ルノワールは紙袋をバサリと公園のベンチにおいてそこに座り込んだ。
「あーあ、おかげで腕が疲れた。 今日はもう絵なんか描けないや」
「らしくもないな」
とセザンヌは笑う。彼はいつの間に、またふたたび小箱を手にしていた。
「また落としたぞ」
と、紙袋に入れる、…というより乗せると言ったほうが妥当かもしれないが、とにかく入れようとしたその手が止まる。
「こんなに不味いものばかり貰って、私だったら処分に困るところだな」
と、持っていた手のひらに乗る小さな白い箱を見た。蓋には金色の文字で誰かの名前らしきものがある。贈り主のそれだろうか。
ルノワールはわずかに眉を顰めて言った。
「不味いなんて。君こそ人生ちょっと損してるかもしれない。食べてみなよ、それあげるから」
「いいのか」
と言いつつも、本心は子供時代のトラウマのせいで積極的には手が出ない。
「いいよ。どうせこんなにいっぱい食べきれないし、きっと飽きちゃう」
飽きるほど食えるものでもないだろうに、と思いつつ箱を開ける。
ほろ苦い匂いが鼻腔をくすぐったが、それに混じってなんとなく甘い匂いもする。薄い板状のチョコが幾枚か重ねてあったので、上の一枚を口に放り込んだ。
まず先に広がるのは、思いがけなく苦さよりも甘さだった。
「いいだろ、このお菓子。僕がはじめてこれを貰ったとき、あんまり甘くて美味しくて幸せになるから、くれた人のことが好きになっちゃったぐらい」
貴族のおばさんだったけどね、とルノワールはつけたして笑った。
「私が子供のときのやつは、ずっと苦くて食べれたものじゃなかった」
「え、チョコってそんな昔からあったんだ、僕食べたことも、というか見たこともなかったよ」
「食べなくて良かった、無駄なトラウマが増えるだけだ、あれは」
全部溶かしきった舌先には、ざらざらした食感が残る。
もう一度小さな幸福を求め、知らず知らずのうちにもう一枚を口に運んでしまう。
知られたら今度はこっちがからかわれるかもしれないので、それをごまかすように、すかさず彼は疑問を発した。
「それで、チョコレートをたくさん持ってる君が女にもてるという理由は?」
「最近のイギリスの流行らしいよ。今日はバレンタインデーていって、恋人や意中の人にチョコレートを渡すんだって。普通に好きな人にあげるだけでもいいらしいけど。 貴族の奥方が教えてくれて、チョコもたくさんくれたんだ」
ルノワールはチョコの山から一つを無造作に取ると、かかっていた紐をするりと解いた。
「でも、どうして今日なんだ?」
「昔、聖バレンタインっていう聖人がいたんだって。司祭だったんだっけ、僕も詳しくは知らないけど…、そんで今日が彼の記念日なんだと思うけど、それを利用したんじゃないかな。製菓会社かどこかが」
「成る程」
納得してまた一枚、口にする。甘い。
自分でも、もうこんなものが食べられる歳でもないと思う。そもそも甘いもの自体何年ぶりだろう。
「何より愛情がこもっていると違うねー」
そういうとルノワールは、ステッキ状のチョコの銀紙を剥いた。
「おいしい!」
セザンヌは横目で、チョコを頬張るルノワールを見る。
しかしその横のチョコレートの山は一向に減る気配がない。
「でもそれ、本当に全部食う気なのか」
「あ、おいしいからって……。それ以上誰にもあげないよ、特にセザンヌ、君にはね!
僕はまずそれを抱えてカフェの連中にも僕のもてもてっぷりを見せびらかしてくるんだ、そんでそのあとはめでたく、僕の半月分の食糧となる」
「食糧……」
セザンヌはルノワールの細っこい体つきをしげしげと眺めた。
決して不健康ではないのだが、男にしてはわりと珍しい細腰である。
「そろそろ今やってるのに本腰入れないといけないし。もちろんいつだって僕は本気なんだけどさ」
要するに、これから先、製作以外の行為―すなわち衣食住には全面的に注意を払わない気でいるのだろう。
「大変だな」
うまい言葉が見つからず、セザンヌは月並みな言葉を述べ、何気なしにルノワールの手先を見た。それは板チョコを無造作に割っている。
「もちろん、大変だよ。でもこのご時世大変なのは誰も一緒だし、きっと何の職業についてても、僕だったら大変だと思ってるんじゃないかな」
「…君は、自重したほうがいい」
突然発せられた地に響くような低い声に、ビクリとしてルノワールは手を止めた。
「え、セザンヌ、まさか怒ってんの…? 僕なんか言った?」
「いや。…しかし」
セザンヌは突然立ちあがって、ルノワールの横にある山盛りの紙袋を抱え取った。
彼の行動にぽかんとしたものの、すぐに返してよ!というルノワールの腕を振り払い、また唸るような声で彼は云った。
「君には自重してもらわないと困る」
「誰が?」
「私が」
そのへんを詳しく尋ねようとルノワールが開いた口を遮って、セザンヌは言った。
「いいか、君がこれを全部食うのはかまわん、でも少なくともルノワール、今の君は多数の人物から求められている存在だ」
「え、どういうこと?」
ルノワールのあまりにぽかんとした表情に呆れて、セザンヌはため息をついた。
「分からないのなら分からないでいいが、……じゃあこうしよう、」
それからセザンヌは交換条件を口にする。
ルノワールはそれを聞くと、あっけにとられてただ目をぱちくりさせた。

 

(なんで私が……)
チョコの山を一抱えし、セザンヌはルノワールについて通りを行く。
『一人で持つとどうしてもいくつかこぼれちゃうんだよ!』
とルノワールが不満をたらしたので、その後何がどうしてか、とにかくセザンヌは彼の家までついていくことになったのだ。
ふいに冬の風が通りを吹き抜ける。 先ほどルノワールの鼻先を赤らめたそれ。
「さむい……」
呟くと彼はまたシュンと鼻をすすり、縞模様のマフラーを引き上げる。

 

セザンヌは言った。
いいか、一日に一度ぐらいはまともなものを喰え、そうしないと「あのこと」をバラすぞ、と。
ルノワールはぽかんとした後、
「え、べ、べつにいいよバラしたって! どうせそんなこと今更だし…」
と虚勢を張ってみるも、彼の脳裏にはとある娘の姿がちらついていた。
そこで彼はハッとする、もしあの娘の耳に入ったらもう二度と口きいてもらえないかもしれない。だから、あわてて撤回した。
「あ…僕、やっぱり従うよ! 君の忠告とやらにさ」
セザンヌはその様子を見つつ、始終黙って冷やかし笑いを浮かべていた。

 

「それでもなぁ……」
高い空にめがけて、ルノワールはふぅっと白い息を吐いた。
「なんだか妙なんだよ、大体、なんで君は僕のことなんか気にかけてるの? そう、そこがおかしい。まるで母親みたいだ。君はたしか僕が嫌いなんじゃなかったっけ」
セザンヌは黙って地上に視線を落とした。
落ちる時を逃した枯れ葉が今になって、石造りの歩道の上にかさかさと音を立てて、うごめいている。 通りがけに踏むと乾いた音がして粉々になった。
「私は、」
セザンヌは口を開いた。
「…私は、君の絵は今にとても評価されるようになると思う」
「そんな、…夢みたいなこと言わないでよ」
かえって悲しくなるから、とルノワールは笑った。
「もちろんこのまま終わってしまう可能性もすっごいあるんだけどさ、でも信じてたいじゃないか、自分がどうしても信じたいと思ったものは。」

(そんな君に嫉妬に似た感情を抱いている、なんて言えるわけがない私は、ただ君の手をじっと見る。しなやかなその手が生み出すものは絵だけじゃない、時に処理できないおかしな感情まで作り出しては、私の心にさざなみを立てるのだ)

 

家へ帰る途中ずっと寒い寒いと喚いていたルノワールは、ふいに思いついて後ろを振り返った。それに気づいてセザンヌは不機嫌そうな視線をあげる。
かまわず、ルノワールは
「いっそ、ホットチョコレートなんてどうかな。 鍋の中に溶かしちゃってさ。 僕は今猛烈に暖かいものが飲みたいんだ」
どうせだから君にも作ってあげる、と言って無邪気に笑った。
「飲み物じゃおなかいっぱいにならないしね、余るなら君にあげる」
うん、そう、それがいい、と一人合点して、ルノワールは快活に歩を進める。
セザンヌは何か言おうとして口を開き、ルノワール、の最初のルを言おうとしたとき、前を歩いていたルノワールが不意に立ち止まったのでビクッと驚いた。
そこは地味なアパルトマンの前だった。
「ついたよ」
セザンヌはアパルトマンの古びた階段を、彼に続いて上った。
目の前の、鼻唄まじりに階段をあがるルノワールの背中はやはり細く、セザンヌは、自分の心に再度もやもやした感情が芽生えるのを、今度こそ、はっきりと感じずにはいられなかった。

 

 

2007.2.14
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