のない街に



吐く息が白い。
薄暗い空の下を行く人の群れは、いつもより活気にあふれている。
それはきっと時期がそうさせるのだ、と、人ごみにまみれながらワトソンは思う。
歩きつづけると、やがて角が見えてくる。角というよりむしろ細い抜け道のようなそれをくるりと曲がると、雑踏の落ち着かないざわめきは、やがて次第に遠くなった。
道幅は人がやっと二人通れるかぐらいの狭さだった。両側はレンガ造りの巨大な建物である。
ワトソンの革靴の音が路地伝いに低く反響する。
小道に僅かな傾斜が出てきたと思ったら、やがてそれは階段にかわった。ワトソンは一足飛びに駆け上る。カンカンカン、と快活な音が辺りに響いた。



数日前の午後のことだった。
「クリスマスは休んでいいよ」
不意にベルさんが言った。 僕は戸惑い、レポートから目を外してベルさんを振り返った。
キッチンでコーヒーを淹れているベルさんの背中は少し丸まっていた。
「君を待っている人がいるなら、クリスマスぐらいはその人のところへ行くべきだよ」
「僕にはそのつもりもなかったので……」
「実家も帰らないのかい。 君は」
「……正直、特に考えてませんでした。 だから僕は」
クリスマスも、いつもと変わらずここへ来ます、と言おうとしてベルさんが遮った。
「残念だけど、ここはクリスマス期間中閉めてしまおうと思ってるんだ」
湯気の立つマグを片手に、ベルさんが言う。
「そうですか、なら仕方ないですね…。 ところでベルさんはどうするんですか?」
「私は……」
言いかけて、ベルさんはもう一つのマグを僕の机の上に置いた。僕は礼を言う。
「私は、昔から世話になっているひとのところに呼ばれているから」
「故郷には帰られないんですか?」
「ここからじゃ少し遠すぎるよ」
そして僕に、「よいクリスマスを、」と微笑んでみせたのだった。



道はとうに開けて、寂しげな佇まいの民家が軒を連ねている。
数人の子供が民家の前で遊んでいるが、それ以外の人影はまばらだった。
ワトソンは早足で道を急ぐ。 図らずも、足元にあった石が蹴られて転がった。
白い息を空に向けて吐き出してみる。それは一瞬煙のように昇ってすぐに消えた。
「ああー…寒い。」
呟いて、ワトソンはコートのポケットに手を入れる。
嵌めている手袋ごしに「小箱」の感触がちゃんとあって、彼は安心した。
(…と、いっても。)
彼は目前の坂道に並ぶアパート群に目をやる。ベルの住居はこの中の一室にあった。
( ベルさんは家にいるだろうか。)
いなくてもそれはそれで、現在彼が孤独でないことの証明にはなるのだから、別にいい。
あるいは、もし今部屋にいても、これから僕が訪ねるのだから彼は孤独でなくなる。
もう一度見上げた空からは雪がちらつきはじめていた。
肩に舞い落ちる粉雪を払って、ワトソンはさらに歩く速度を速めた。



ワトソンは、部屋の扉を幾度かノックする。
開かれたドアの向こうには、案の定―ベルがいた。驚いたように目を見開いている。
呆れたような口調でワトソンは言う。
「ほら、やっぱりいたんじゃないですか……」
「だって君こそ……、家に帰るはずじゃなかったのか…?」
「僕はいいんです別に。 どうせ僕には兄弟なんかわんさかいるんですから、一人ぐらいいなかったって誰も気にしやしません」
「そんな無茶な…」
「ベルさんだって。 なんですか、あの本の山は」
ワトソンは、ベルの肩越しに見える丸テーブル、その上に積み重なった本の山を指さした。
「よくあれで休暇といえますね」
「嘘の予定は、君が休めないと思って……ワトソン君は自分だけ休暇をとるような人間じゃないだろうから……」
そしてベルは俯いた。
ワトソンは溜息をつくと、ポケットから先ほどの小箱を取り出し、ベルに渡した。
え、という顔つきをワトソンに上げるベル。
「僕からのクリスマスプレゼントですよ。 開けてみてください」
うん、と頷いて、細い指がリボンをするすると解き、蓋をあける、そこには四角い機械が入っていた。
ベルは再度顔を上げ、そしてワトソンの微笑みを見た。
「オルゴールです。 螺子を廻してみて」
おそるおそる、という手つきが螺子を廻した。
これ以上廻せないというところで指が離れ、やがて美しい旋律が流れ出す。
どこか哀愁を帯びた旋律が人の心を揺さぶった。
ハッとして、ベルはワトソンの顔を見る。
「この、曲は、」
「今年、ベルさんは故郷に帰れなかったでしょう。 その代わりです」
じっと掌の上の機械を見つめる、驚きに満ちた黒々とした瞳。
「私の祖国の民謡だ……」

ワトソンとベルは、丸テーブルの中心にオルゴールをおいて、ずっと奏でられる音に耳を傾けていた。
ベルは自分の故郷を思い、
ワトソンはベルの故郷を思った。
そしてどちらも、いつか行ける日が来ればいい、と願っている。

「あ」
窓の外に目をやったベルが、短い声をあげた。
ワトソンもつられて外を見て、
「ああ、雪」と声を漏らす。
先ほどの粉雪は少しづつ質量を増して大粒となり、なおも街に降り続いていた。
気のせいか、子供のはしゃぐ声もにぎやかになってきたようだ。
その声を聞いてか、ベルは「子供時代を思い出すなぁ」と笑った。

「いつか、ベルさんの故郷に、僕も連れて行ってください。」
「いいよ、私でよければ」

ベルにとっては冗談交じりだったかもしれない。
でもワトソンは、ベルの心を捉えて離さない"故郷"へ、いつか絶対行ってやろうと決めるのだった。



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