チャイムを押す。
数秒の沈黙の後に、軋む音を立て戸が開いた。
「どなたですか…」

「どうもこんにちは、です。」
物憂げな言い方は先生の専売である。
笑顔で云い、こうして僕はこの人が生きていたことを確認した。


一方、戸を開けた家主は、突然の来客に素っ頓狂に云った。
「何だ、鳥口くんじゃないか。」



台所に入り、両手にぶら下げたスーパーの袋数個を床に置いて、鳥口は冷蔵庫を開く。
その中身はほとんど空に近い。
かろうじて入っていた、封の切られた惣菜袋をつまみあげる。
「ちくわの一切れ…。  これで今晩どうするつもりだったんですか」
「さあね」


あくまで飄々としている。
この人は、ある部分には敏感すぎるほど繊細なのに、人間に必要な生命維持については全く疎いのだ。


関口はいつの間にか奥に引っ込んでいた。
袋の中身を冷蔵庫にてきぱきと詰めながら、鳥口は云う。
「先生、やっぱり僕がいないとだめですねえ。  生きているのか死んでいるのかわかりゃしない」
「思い上がるのも程々にしたまえ。 僕はこうみえてきちんとやっているよ。」
奥から返事がくる。 面倒くさそうな口調はいつものことだ。

「先生がほとんど家を出ないのがわるいんですよ。」
「出なくても生きてはゆけるさ。」
「でも買出しは僕の仕事なんでしょう。」
「郷里から大量に送ってきたからといって、君が勝手に色々置いていくんだろ。  頼んだことなんてないさ。
 第一僕はそのせいで、ここ数日蜜柑ばかり食べていたんだぜ。 
 色素を取り込んで身体が黄色くなると、もっと猿に酷似してくるじゃないか―」

小説家はそんな冗談とも本気ともつかないことを云った。


「熟れた柿か林檎を食べると赤くなってもどりますよ。  今度届けましょうか。」
「適当なことを云うなぁ、君も。」
呆れた声が聞える。 鳥口は笑った。



ふと耳をそばだたせると、ペン先がカリカリいう音が聞えてくる。
奥に目をやると相変わらず小さく歪んだ背中が見えた。

「先生、珍しく順調なんですね」 
「書けるうちに書いておきたいんだ。 いろいろとね」  小説家は振り返らずに答えた。
「僕も先生の一ファンなんで、執筆が進むことに異論はありません。
 ―― じゃあ僕ァ、ここでお暇しますね」


「待ってくれないか、」
キキ、椅子が回転する音がする。 鳥口は振り返った。

「君のところの原稿がもうできているから、よかったら持っていってくれないか。」

無造作に手渡された袋を持って、ただ立ち尽くす。
「うへえ、もうですか。 早いなあ。」
「早くて困ることはないだろ。 君のところは比較的ルーズでもよさそうなものだけれど。」
「それどころか、もうしばらく発行予定ないんですよう」 鳥口は泣きそうな顔をした。
「情けないなぁ。 でも君は再刊までに紛失してしまうような人間じゃないだろ。」
「もちろん。 そりゃ編集失格です。 ですが―」
僕ァ、先生の原稿をすぐに皆に読んで貰えないのが悲しいんです。 自分の気ばかり焦れて。





何も知らない鈍感な作家は、ただ慰めるように云った。
「再刊する暁には、また何か書くから」
「うへえ、先生すっかり大作家気取りで。」
「いいじゃないか、誰に迷惑をかけているわけでもなし」

うん、と立ち上がり小説家は伸びをする。

「そろそろ茶でも淹れようかな。 君も飲んでいくか?」
「いいですね。 是非お付き合いさせていただきましょう」


原稿の入った袋をしまうと、鳥口はふらふらと足元のおぼつかない関口を追って台所に戻った。

 

 

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