「もう一度聞きます。そんなに―」
ワトソン君は、くるりとこちらに向き直った。
「怖いんですか?」
彼の強い視線は、私に少なからずの脅威を与える。
―蛇に睨まれた蛙。
しかし、彼のことを恐ろしいと思う自分を、自分と離れたところで客観的に感じてもいた。
みしり、古い床を軋ませて、ワトソン君がこちらに近づいてくる。
「ワ、ワトソン君―」
私だけを穿つように見ている強い双眸。
それは確かに怖いけれど、私はすでに、ある程度の諦観に満ちた覚悟はできていた。
何をされるかといって、恫喝、殴る、蹴る…いっそ自分の想像力の乏しさが恨めしいぐらいだ。
この助手は、私なんかより、もっといろいろなことを知っているのだろうから。


バン!
ワトソン君は、壁に手をついて、じっと私を見下ろした。
「ベルさん」
表情は影で読めない。
「一つ聞いてください。 これから僕がベルさんにすることは、もしかするとベルさんを傷つけてしまうかもしれない」
「…別にいいよ。 全て私がいけないことは分かってるんだ」
「そうですか、それなら」
シュン、と顔の上で風を切る音がする。 反射的に顔を背ける。
瞬間のことで、痛みは感じないけれど、確実にやられたな。と思った。右頬のあたりを。
思わず、彼に張られたであろう頬の部位に手を当てる。
そして、自然に、涙が頬を伝い落ちた。あまりにも情けなくて。
年下の助手の機嫌さえもうまく取れないことを。
―しかし、私が頬に当てた手は、彼によって無造作に払いのけられた。
「っ、」
きっと私は恨みがましい目をしていんだろう。 ワトソン君は困惑気に言う。
「本当に平手打ちなんてしませんよ」
言って、ワトソン君は私の前にしゃがみこんだ。そして頬の、私が先程手で覆っていた場所に、軽くキスをした。
「ほら、痛くない」
「ワ…ワトソン君…っ!」
ワトソン君が唇を落とした、その一点に一瞬で血が集まって、ありえないほど熱を帯びていた。
「ちょっと怖がりすぎですよ。 少しからかってみただけじゃないですか…」
「だ、だって…本当に怖かったんだよ…」
「顔、真っ赤ですね」 そう言って頬を撫でる長い指を感じる。
「それは、君が!…っ、」
言い終える前に再びキスをされる。 今度は右耳の下。 そしてその次は首筋に落ちた。
「止め、ワトソン君」
「止めませんって」
感触のある場所は毎回気まぐれに移り変わった。
左頬、鼻先、瞼の下。 眸を閉じていたのでその感触は異様に過敏に感じられた。
やがて、その閉じた瞼の上にも、そっと。
―最後は、唇。


今までの場所の中で一番執拗に―。
求めるように強く吸われて、気付かないうちに、私のほうからも顔を寄せようとしていたときだった。
不意にワトソン君が唇を離す。
「ぷはっ…はっ…」
気づけば息を吸うのも忘れていた。
新鮮な空気を深く吸いこんでもなお、彼からの突然の肩透かしにとまどいを隠せない。
ワトソン君は白々しく立ち上がって窓の外に目をやった。
「ベルさん…、やっぱりごめんなさい。これ以上は」照れたように、彼はコホンと咳をしてみせる。
何を、と訊こうとして、止めた。
だって、それはほぼ分かっていることだったから―。そうして、戸惑いながら頷いてみせた。
「うん…」
「僕を許せますか?」
「わからないよ…だって、混乱してるんだ。でも、たぶん嫌いにはならなかったと思う…ワトソン君のこと。」

あの時、私の心は何か暖かいもので満たされていった。その感覚は久しく忘れていたもの。いや、もしかしたら初めてだったかもしれないそれを、彼は私に与えてくれた。その、心地のよいやわらかな気持ちを、時として“愛情”と呼ぶのだろうか。
もしそうなら―そうだとしても、彼の愛情を全て受け止める術は、いまの私にはない。
けれど、一方的に充満させられる愛情に、二つの心が満たされる瞬間は―今や忘れられない記憶となって残った。

「もしかしたらいつか、君のことを愛せるかもしれない」
ワトソン君の青緑の眼が大きく見開かれた。
「ベルさん…、そんな、僕は貴方を傷つけるようなことをしたんですよ」
傷つけられてなんかいないさと私は首を振る。
ワトソン君の顔は、喜びと戸惑いの表情が半々になって混じりあっていた。
「そんな…」
「君がしてくれたことを、そのまま君にしてあげられる自信はないよ。 …だって、他人を好きになるには自分を好きになれないと始まらないから、もしかしたら私にはずっと無理かもしれない。 でも、してあげられたらいいな―とは思うんだ。 あのとき私はとても幸せだったから」
「ほら!」
言葉をさえぎるように、ワトソン君は赤い顔のまま、ずいと手を伸ばした。
「とりあえず…、立って! アパートまで送りますよ」
「ありがとう」
少しは笑えただろうか。
ワトソン君から差し出された手に、私は素直につかまった。
そしてそれはとても自然なことのように思われた。



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