陽は既に南中を過ぎ、今はちょうど曽良の笠と重なるほどの位置にあった。
一瞬、焼きつきそうな橙の日差しが瞳をかすめ、曽良は目つきを一層きつくする。通りすがりの子供は曽良を見上げてびくりと怯え、こっそりと母親の和服の陰に隠れた。
曽良は陽射を避けるように少し笠を下げ、
(家を出てくるのはこれでも少し早かっただろうか、)
と思った。 曽良は芭蕉庵へ向かい歩を進めている。
そこで行われる芭蕉を囲んだ弟子の集いに、わずかに不本意ながらも曽良も呼ばれていた。
「曽良君はいつ来る?」という師匠の問いに、気まぐれに「昼に来ますよ、」とはうそぶいてみたものの、結局曽良が家を出たのは真昼を一時半も過ぎてからだった。この気まぐれも曽良の中ではままあることで、誤差の範囲内といえばそうだった。
その更に半時後、漸く曽良は芭蕉庵に到着した。
引き戸を引くと、がたぴしと独特の音がたつ。それを聞き逃さず、待ちくたびれていた芭蕉が部屋から小走りでやってくるのと、曽良が上がり端に揃った履物の数を確認するのとはほぼ同時だった。
「お早う、曽良君」
そう芭蕉は、一番遅くにやってきた愛弟子に云った。
「もうお早う、の時間でもないでしょう」
すぐに造作なく曽良の返答がされた。それを見越していたかのように、芭蕉は微笑んで「這入んなよ、」と云った。
曽良は僅かな違和感を感じている。
普段の芭蕉なら、遅れてきた曽良へ文句の一つ二つも零すところだった。しかし今日は、ただ「お茶菓子を持ってくるから」と云って曽良を部屋に通した後、すぐに台所へ引っ込んでしまった。
何だか調子が狂う、と眉を寄せつつ、曽良は部屋をぐるりと見回した。
いつに無くよく整頓されている部屋だったが、ただひとつ、隅に積まれたままの座布団の山で、ここから客が帰って間もないことが見れ取れた。
そういえば部屋の雰囲気にもどことなく落ち着きがない。
――すす、と唐紙が開き、芭蕉がお待たせ、と顔をのぞかせた。
遅かったじゃないですか、と云う曽良に、「ごめんごめん、」と微苦笑を浮かべ、芭蕉は卓袱台へ盆を置いた。そこには満たされた二つの湯呑みと、最中があった。
「どうぞ!」
と芭蕉が湯呑みを曽良の前にかたりと置く。曽良はただ軽く頭を下げるのみだった。本当は湯のみから湯気が立っていないことに曽良は目敏く気がついていたが、僕は小姑じゃないんだから、と思い口に出すことは止めたのだ。
だから黙って、湯のみに口をつけて啜った。すると自分の意思とは裏腹に、段々と眉が寄っていくのが分かった。
一息ついて、これ以上にもないだろうという凶悪な顔をし、今度こそ芭蕉へ何か言おうとして口を開けかけた曽良は、無邪気な芭蕉の一言に遮られた。
「苦いの嫌い?」
と、芭蕉はにこやかに訊くのだ。
「いえ、そんなことは」
曽良は思わずそう返す、しかしその返答とは正反対に曽良の眉間がきつく寄せられているのを見たとたん、芭蕉は思わずぷっと吹き出し笑いをした。
「何が可笑しいんですか、」
どんな時でも語気を荒げない曽良の口調は、時と場合によっては、機嫌を悪くした小児のように見える。芭蕉は笑いすぎたせいでうまく呼吸ができなくなっていた。
「しょ、正直に云いな、よ、にが、苦手なんだろ、苦いの……っ。あは、あははは、」
「殴りますよ、」
いつのまにか曽良は立ち上がって、芭蕉に向かって拳をかざしていた。
芭蕉はそれを見てぴたりと笑うのをやめて、自分の口を必死でふさいでいた。
もごもごと口が動く。さしずめ、笑ってない、笑ってないよ、とでも云っているのだろう。
曽良は芭蕉の様子を気にせず、唯ひやりとした口調だけを浴びせかける。
「僕で遊んでいたんですね。僕は玩具じゃないんですよ」
その時できる限りの怖い顔で云った、つもりだった。しかし芭蕉の眼はまだ笑みを残している。否、口を塞いでいる分、眼には益々笑みが溢れていた。
芭蕉は、本来なら自分の恐怖を煽るはずの表情に瑕を見つけてとうとう爆笑をおさえきれなくなり、腹を抱えて笑った。
「あっははは、そ、曽良君もかわ、可愛いとこあるじゃ、」
「うるさいです、」
云ってみたものの芭蕉は少しも笑いやむこともなく、カッとなった曽良は振り上げたままだった拳骨を芭蕉の頬に放った。すばらしい音をたててそれは見事に命中し、一瞬後、芭蕉は畳に大の字に伸びていた。すかさず曽良は芭蕉の上に跨り、そっと己の拳骨をかざして、静かに芭蕉へ訊いた。
「芭蕉さん、もう一発欲しいですか。それとももう僕を虚仮にすることを止めますか」
口調に反して石のように硬く握り締められた拳、曽良の背後から射す逆光、炎も凍りそうな冷静沈着な訊き方――これらにより、芭蕉には曽良が鬼以上に恐ろしいものにみえ、そこで初めて恐怖を感じてヒィィと泣いた。
「止める!止めます誓います曽良様!だから勘弁してー…」
顔を手で覆って震えている芭蕉の姿に、本当に一発殴ってやろうかとも思って、曽良は拳でシュッと芭蕉の頬を掠める。とたんに「ヒィィ」と啼き声が漏れた。
本当に、馬のようだ。
目の端に涙を浮かべて芭蕉は曽良を見上げる。ただしこれは爆笑の副産物ではない。
「や、やめるっていったのに……」
「ほんの遊戯ですよ、」
云ってから曽良は芭蕉の上から躰をのける。
芭蕉はやっと解放されて、うん、と四肢を伸ばす、が、曽良が口にした言葉でその動きをピクリとこわばらせた。
「お茶、淹れてきてください。小細工なんかしないで。熱い緑茶を。早く。」
「はい、曽良様……」と、肩を落として、盆をつかんで芭蕉は立ち上がった。
盆の上、香る茶が、急須の口からほのかな湯気をたてていた。
曽良は湯呑みを取ってズズズと啜る。そしてやっぱり茶は熱いのに限りますねと云おうとして、これではどこかの御隠居のようだなと、やはりこの言葉も心にしまった。
芭蕉は自分で、こぽこぽと音を立てて湯呑みに茶を注いだ。
「弟子の一人が茶葉商人と知り合いらしくて、貰って来たらしいんだよ」
「あの抹茶ですか」
とても厭そうに曽良は云う。
そうとも気付かずに芭蕉は続けた。
「うん。高級なんじゃないかな、私は専門家じゃないから、よく解らないけど」
「そうなんですか……」
曽良にとってあれは苦い茶には違いなく、それ以上もそれ以下もない。ましてや旨みも渋味も味わい深さなども知れたところではなかった。自分でもずいぶん乱暴な味覚を持ったものだなと思い、曽良はまた茶を飲んだ。そのかわりこの茶は旨いと思う。
「揶揄うつもりはなかったんだよね。ただ皆で飲んで、美味しいかったら君にもと思って」
「じゃあそういって出せばよかったじゃないですか」
「え?」
すると芭蕉はぽかんとして云った。
「だって、抹茶でも茶には変わりないじゃないか」
――曽良は芭蕉を見つめて思う。師匠ですらこうなのだから、弟子の味覚が大雑把でも何ら問題はあるまいと。
そして曽良は最中に手を伸ばした。
「曽良君のことだから遅れて来るだろうとは思っていたんだよ。逆に言えば遅くなっても来てはくれるだろうとは思っていたし」
「待ってたんですか」
「待ってたよ。まあここが家だから待ってるも何もないけどね。今日は曽良君と喧嘩なしに……といっても常に私がボコられてるだけなんだけど……。とりあえず曽良君と仲良く喋りたかっただけなんだよ」
「気持ち悪いですね」
にべもなく、芭蕉の分の最中を齧りながら曽良は云った。
芭蕉は再び微苦笑を顔に浮かべ、「そ、そうかな、」と云った。
ふいに遠くから、寺の鐘を打つ低い音が聞こえ、芭蕉は顔をあげる。
庭の垣根の向こうには、もう暮れかけの陽があった。夕方も終わりの頃だ、早いね、と芭蕉は立ち上がる。何処へ行くんですか、と曽良は訊く。
「夕餉だよ、」
と、快活な口調で芭蕉は答える。
「曽良君もどう? 私の手作りでよければ一緒に。」
……ええ、是非。と曽良は云う。その答に咲くような笑顔をみせ、芭蕉は、よし頑張っちゃうぞ!と張り切った様子で部屋を出る。
しかし曽良は、その背に向かって続きを云わなければどうしても気が済まなかった。
「不味かったらぶっ飛ばしますからね、」……と。
07.03.21
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