作業場の木のドアは、引くと、いつものように軋む音を立てた。
開かれた暗がりにワトソンは目をしばたかせる。
外の太陽は未だ煌々と明るいのに、ここだけ湿っぽく暗い。
光が遮断されているのは作業に影響を与えるからでもあるし、ひとえにベルの趣味でもある。
だがすぐそこには人の気配は感じられず、ワトソンは名前を呼んだ。

「ベルさん、いますか?」
「いるよ」

奥のほうからそっけない返事が聞こえる。その声に、朝のことを思い出して心臓がドキリとした。
自分の夢での彼の態度と、今の口調の落差に、自分の願望の異常さがはっきりと現れてくるようで、
―ワトソンはまた嫌悪感を抱く。

彼はコートを壁に掛けて、作業場に足を踏み入れた。
床に散乱している道具や荷物や、うずたかく積まれている書籍をよけて声の主を探す。
「どこですか、」
返事はない。 たいていいつもこんなようなものだ。 彼は慣れている。
でも今日は特別不安になった。 ワトソンはいつもの数倍必死でベルを探した。
最終的に目をやった先に居たのは。
―青年は安堵した。
「ベルさん」

グラハム・ベルは最奥の、日光を遮る黒カーテンの下に座りこんでいた。
カーテンのすそからわずかに零れる光が、顔に白い影を落としている。
「ワトソン君」
近づいてくる助手に気付いてつと目をあげる。黒々とした瞳がかすかに揺らいでいた。
その仕草を蟲惑的だと思ったワトソンは、危機感を感じてすぐに考えを打ち消した。

―だいたいこの人は。
(教授のくせに休講ばっかりで、何をしているかといえば欝になって引きこもってしかいないじゃないか。この人は僕がいないと、その頭の中の計画もうまく形に出来ないんだ。 )
そうやって現実の彼を再確認すると、ワトソンはしゃがんでベルと視線を合わそうとした。

「昨晩はここに泊まったんですか?」
「うん」
「何か……大丈夫ですか? いつもに増して……」
「私は、昨晩」
怖い夢を見たんだ、とベルは言った。
何か言おうとしたワトソンが口を開く前に、ベルは「でも、」と言って話を続けた。
「―でも君が来てくれたからよかったんだ」
「どういう意味ですか」

ワトソンは少しの動揺を隠して訊く。
( 昨晩の僕の夢のことを、この人は知っているんじゃないだろうか。)
しかしそれはありえないことだ、と彼の理系の脳は判断していた。


「その夢で、私は君に捨てられたんだよ」とベルは言った。
「だから怖くなった。 だけど、今日君は私を探してくれた。 私は君に嫌われてないんだ」
「当たり前です」
「…ねえ、こんなネガティブで頼りない私だけど、どこにも置いていかないでくれないか」
その哀願するような口調を、ただ受け容れようとした。

「当然です」
「電話の発明が終わっても、」
「当然のことです」
ワトソンは微笑んだ。
「見捨てやしませんよ」
まるでそれで救われたみたいに、ベルも微笑んで「よかった」と言う。
そしてワトソンはある提案をする。
「ベルさんはもっと日光に当たるべきですよ。 ベーカリーショップまで歩きましょうか。 作業はその後で」
「うん」
ベルは立ち上がって膝の埃を払う。
二人は工具や機材や書籍の山をかきわけて、玄関に戻る。
ワトソンは壁からコートを取った。 後ろからベルが呼びかける。
「ところで、ワトソン君」
「何ですか」ワトソンは振り向いた。
「昨日私は夢にひどく傷ついて、夜明け前は一人で電話機に向かってたんだ。 そこである発見をしたんだよ」
その発見を、ワトソンの耳元で囁いた。
それを聞いて、ワトソンの翠玉に似た瞳が大きく見開かれる。

( 凄い、だから、この人は、この人でいていいんだ。 この人である価値があるのだ。)
聞かされる新しい発見を整理しながら、頭の片隅で彼はそう思った。

そして、その発見にどれほどの意味があるのかまだ分かっていないベルに、
「また1歩、近づきましたね」と、笑顔を向けて、言った。



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