05:知らない


自分を侵す全てのものを疎んで、殻の中に閉じこもりたくなるときがある。
しかし、あるとき、突発的に外気を恋焦がれるときがある。
―それが今だった。

機械を弄くる指先に、カーテンの隙間から陽光が射して小さな丸い点を落としているのを見て、新鮮な感動に包まれた。
―ああ、この世には光というものがあったのだ。

それは知りすぎるといずれ倦むべき存在となりえるけれど、
忘れっぽい私は、今はただ無邪気に再会を喜ぶ。
太陽の翳りなき眩しさに感化されて、今は畏れなく外に出て行ける気がする。
いや実際行けるのだ。これは事実、事実にしてしまおう。

古びた外套を手に―それはお世辞にも格好いいと言えるものではなかったけれど―とにかく私は外に出た。眩しい、そういえば今は何月だっけ? 思い出しながら行く、石畳の道。気のせいか春の匂いがする。こんな湿気た町並みにすら、私は桃色の小花を見る。
不意にポケットに手をのばす、そこには紙―おそらく紙幣―といくつかの小銭の感触があった。はて、これはいつからここにあったのだろう、とまた思案を巡らせる。耳元に緩い風が吹く。
そうかこれは、先月分の給料かとようやく思い出す。そのころには私はすでに街の喧騒の中に足を踏み入れていた。貰ったのは紙幣ばかりのはずだったけれど、じゃあこの小銭は、というとそれも一緒に思い出していた。私としては珍しくいい気になって帰りに喫茶へ寄ったときの釣り銭だった。人と行き違いに肩をぶつけそうになったのでふっと避ける。
ええ、一人で? それはありえない。この街のそれはみんな洒落ていて、その上どこか閉鎖的で、ある一定の基準を満たした人間しか求めていないように―もちろんそれは私の個人的な妄想に過ぎないのだが―思える。
だが、誰となら。ふいに青年の笑顔がよぎる。この顔は。なぜか私によく接してくれている学生のひとりだった。名前は何といったっけ、ファーストネームは……ダメだ、この記憶能力に頼るのは馬鹿馬鹿しい。じゃあ、ファミリーネームは。
「―ワトソン君」
考えるより先に言葉が漏れた。そう、ワトソン君と云ったっけ。私が何かしてしまうたびに、彼は心配そうに私の名前を呼ぶ。その表情を見るたびに、私はとてつもなく申し訳ない気分になるのだった。べつに、構って欲しいなんて思ってもいなかったのに。
私の一番近くにいて私を知っているのは私だけでいい、なんて、厚かましくも思っていたのに。
角を曲がると、嗅覚に訴えかけるものに出会う。香ばしいパンの匂い。この香りに誘われてか、それとも角地にあるからか、ともかくこの店はいつも盛況で、ひっきりなしに人が出入りしている。それが私には心地よい。紛れてしまえるから。
この開放的な造り―入り口のような入り口がなく、人々は勝手勝手に入ったり出たり、察するに何も買わない人間も多いようだ―も、私が愛しているひとつの点だった。この街でまともに、少なくとも私が思う限りでなんとか人並みに行動できる場所といったら、自然と限られてくるものだ。灰色のロングコートに手を突っ込んで目立たないように、流れに乗るように、座り込んだ子供たちがパンくずを齧っている横を抜けて、入り口の低い階段を上る。ああ何たる香ばしい匂い。人の視線を避けて籠の中の長いパンを見る。ああ、あれは長い、なんて素っ頓狂なことを思う。私だったら食べ切るまえにかびさせてしまうだろう、きっと。いつも私はあまり食べなくてよい。常時、食欲はあまりない。
その上いつも食べ物には無関心で、平気で数日ものを食べないことも多い。しかしそのたびに、ワトソン君が面倒を見てくれるのだ。
こう考えると彼には迷惑ばかりかけていることに気づく。彼は私を嫌わないだろうか、あるいは面倒に思わないだろうか。思うならもうすでに思っているだろう。だから今更かもしれない。
フランスパンの籠よりもっと近くに置かれた平たい籠―中身は空だった―の、ミルクパンと書いてある値札を見つつ、私はまた己の深層に没頭していた。自己分析もどんどん深いところに行くと取り返しがつかないことになるよ、とは世話になった教授の弁だ。その教授はとにかく親切だったので、いくつかの代表的なサンプルを私に見せてくれた。あな恐ろしや。一番の恐怖はそこまで到達しかねない自分のことだった。幸い私は周りに助けられているから、まだそれは現実のものとして実感はしていない。
ふいに視界が大きく動く、見ると小太り気味の女主人が、丸い大きいパンをトレーに乗せて、無造作にざらざらとミルクパンの籠の中に落としたのだ。それを見て私は少し笑う。すると女主人がぎろりと目を剥いたから、私は慌てて視線を靴の先に落とす。床をきょろきょろして、さながら小銭でも落とでもしたようなふりをした。
「フランスパン、一つ」
小さな窮地に陥っていた私の耳に、凛とした声が響く。声のするほうを見ると、横並びの人ごみから長くて細い指が出て、確かにフランスパンを注文しているのが見て取れた。それは紛れもなく彼、ワトソン君だった。
「あと、そこの蜂蜜の小びんも一つ。……バターは二個お願いします」
私は彼に声をかけるのをためらった。彼の話し方は織り目のないシルクのように高潔だ。
ある人にとってはとりすましたところがある、と嫌われる対象になっただろう。でも耳に心地よい彼の声が私は好きだ。しかしそれはある種崇拝的なものだったので、同じ言語でも会話を交わすことでやはり、差を感じずにはいられなかった。
「あ、ベルさん!」
彼は遂に私を見つけて、歓喜した。その美しい言葉によって。私も―ほぼ儀礼的ではあったが―やあ、と曖昧に笑ってみせた。彼は少し恥ずかしそうに云った。
「今からベルさんの家をお訪ねしようと思っていたんです。 でもまさかここでお会いできるとは……」
そして彼は受け取ったばかりの茶色い紙袋を突き出してみせる。フランスパンの先がのぞいていた。
「……あまり外出されないと聞き及んでいたので差し入れのつもりでしたが、どうやらそれはただの噂のようでしたね。こうしてちゃんと街にも出てきておられるし」
とんでもない、とそれを否定して私は言う。
「ちゃんと私が動けるのは、ここと、公園と、大学の限られた部分、それに家ぐらいなものだよ」そして私は、少し迷ってから紙袋を受け取ると、ポケットの中の紙幣を出して彼のしみ一つない綺麗な手に乗せた。それがとるべき行動のように思えたからだ。しかし彼の顔には困惑気味な表情が浮かぶ。
「ベルさんこれは、 ……代金ならまったく構わないんですよ、僕は」
「いいんだよ、私は他人から情を注がれるような人間じゃないし」
むしろありがとう、と私は精一杯の笑顔を彼に贈った。食べきれないとかはもはや二の次の問題でしかない。彼を悲しませることだけは、私はとにかくしたくないと思う。それは自分でも嫌っている自分という存在を、無条件で許してくれている人間に対し、唯一私ができることだったから。
紙袋を抱えて慎重に段差を降り、何気なしに振り返るとワトソン君の微妙な表情があった。
彼は何を望んでいたのだろうか、と考えているうちに彼はふいと店の人ごみの中に這入っていってしまった。
もと来た道を家まで戻る。頭の中は研究でいっぱいだったから、いつの間にか足は石畳の歩きにくい坂道を越える。横に並ぶ古びたフラットの一室、ドアは軋むし窓は完全には閉まらない、そんな部屋の不完全さは時に私を安心させた。鍵を差し込んで廻す。軋む音がしてドアは開いたようで、引く。這入る。部屋の中は暗い。カーテンが閉めてあるせいだがあける気にもなれなかった。やはり人間は怖い、太陽は怖い。私はずっとこのまま、社会との距離感を計れないままなのかもしれない。恐る恐る近づいては怖くてすぐ離れるような。私の人生はずっとこの繰り返しなのかも、とケトルに火を入れながら思う。ようやく白い湯気をたたせはじめたとき、部屋のドアをノックする音がした。
「ベルさん、」
先ほど会ったワトソン君が、また紙袋を手にもって立っていた。不安そうな笑顔を浮かべている。どうしたの、と私は訊く。なるべく彼の気を損ねないような口調を選んで。
「お昼、ご一緒させていただけませんか。僕の分のはあるので。 ……同席させていただくだけで十分なんです。無礼なお願いですが」
どうして君は、という声がかすかに震えているのが自分でも解った。ワトソン君の澄んだ翠色の瞳から、視線を離したくなった。でも強い眼光に捕らえられ、それは叶わない。
「どうして君は、…私なんかを好いていてくれるんだろう。 こんな腐った精神なんか棄ててしまえればいいと、いつも本気で思っているんだよ」
「腐った精神、」と、彼は呟きを漏らす。何か思案しているように。そしてふいに瞳をあげる。その時の緑柱石に似た彼の瞳は、若者特有の意志の強さと少しの傲慢さと、得体の知れない大きな自信に満ち溢れていた。もはやそれは瞳からだけではなく、全身から放たれるオーラを、私は感じたのだ。そしてかなわない、と心で呟いた。彼のような鮮やかな年頃を、私は既に通り過ぎてしまった。その時はそうと知らずに。彼もきっと知らないのだろう、今が一番輝いているということを。やがて、彼の薄い唇が、ためらいなく言葉を紡いだ。
「ベルさんは自分が嫌いでも僕は貴方が好きですよ、それは間違いありません」
「どうして、」
ここでワトソン君は初めて逡巡し、やがて言葉少なに云った。しかしそれは私を赤面させるには十分なものだった。その大胆さが私を圧する。
「ベルさんは、いつもどこか別のところを見ているでしょう。 よく欝になって落ち込んでいるけど、見ている先は決して袋小路ではなくて」
そう言われればそんな気もしてくる、でもそんな仰々しい言葉にすると私が大人物のようで、知らない人にはあらぬ誤解を招くだろう。その自信に満ちた彼の思いに私は戸惑いを隠せずにいる。だから誤魔化すように、俯いて、できる限りシニカルに訊く。
「そこに惹かれたと、」
「惹かれたなんて、…恥ずかしいですけど、でも確かにそうです。でもそれだけじゃないです」
自分でもその先はうまく言葉にできないんですよね、とワトソン君は笑った。この青年は、常に笑顔のかけらをあちこちに振りまいている。
「徹頭徹尾ベルさんのお邪魔にならないようにしますから、僕を貴方の傍にいさせてくださいませんか? 面倒でしたら無視してくださって構いません」
ワトソン君はからっと言ってのける。彼は夢を見ているんじゃないだろうか、私がそんなに綺麗な存在ではないということを、知らないのではないだろうか。それは青年にはよくあることなので、私はそれを恐れていた。寄りかかったとたんどこかに消えてしまう、そんな空しい、蜃気楼みたいな存在なんか、私にとってはいないほうがいい。もともと私には他人なんかいらないんだから、いて欲しい、と思える積極的な理由がなければ必要がないと思える。でも、この青年には不思議と他人を惹きつけるものがあることも確かだった。だから、言葉を選んだ。できる限り、彼の望むほうに。
「ワトソン君、」
「はい」
「私は謙遜でも自虐でもなんでもなく、本当に汚い人間だよ」
「…はい」
認めにくいような、でも一応は認めないと自分も認められないと知っているからか、ワトソン君は無理に笑顔をつくってみせた。
「それでもいいなら。…あとで幻滅されるのは、もう、こりごりだ」
ほら入りなよ、とドアをあける。ワトソン君はまた「はい」と返事をして足を踏み入れる。彼は紙袋をテーブルに置いて。私は暗い部屋でぼんやり光る、彼の白くて綺麗な手ばかり見ていた。中身を取り出す手つきも、ジェントリのそれに似ていた。どこか品があり―もっとも私はそれを見たことがないが―美しい。まるで上流貴族のようなその手が私を壊すことを考えると、耐え難い興奮が躰を包んだ。彼の指先によって美しく秩序立てて解体されてしまいたい。私はあえてその願望を否定はしない、でも私はやはりあの手を汚すわけにはいかない。彼もきっとそれを望まないだろう。彼が欲しいのは、ただひやりと冷たい、孤高という名の私の影ばかりなのだろうから。
―だから、取り込んでしまえ。そう、気づいたときにはもう戻れなくなるぐらいに。だからそれまで私は彼を冒しつづけることにしよう。
そう決めたとき、私ははじめて、彼の前で緩やかに微笑んだ。ワトソン君は私の汚い本性など知るわけもなく、ただ私よりずっと無邪気でキレイな貌で「ありがとうございます」と、笑った。





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07.2.3