07:オレンジ

 

テレビの画面の向こうでは、綺麗な衣装を身に纏ったスケーターが、くるくると華麗に廻っていた。
「綺麗だなぁ」
脩平はぼんやりと炬燵に頬杖をついていた。もう冬も明けがけというのに、仕舞うのも面倒で出したままになっている。そろそろ片付けなければなるまいと思っているのに、なんとなく機会もなくてそのまま――というのも、単に怠惰の言い訳にしかならないのだけれど。
テレビ画面のフィギュアスケーターは、脩平が物理で学んだ摩擦の現象なんて通用していないかのように軽やかに舞い、大して熱中して観る気もなかった脩平の視線をいつのまにか奪っていた。
少しの動きにも反応してひらひらとなびく、橙の薄絹が美しい。 スケーターは天使の羽根のように長く均整の取れた足と手を、まるで糸でもって巧みに操っているかのように駆使しては、観る者の注意を自分ひとりにのみ惹きつけていた。
華麗なスケーターの一動作ごとに共鳴して、心が僅かに震え動く。
脩平は思わず溜息を漏らした。
(綺麗、だな)
彼女は広い氷の舞台で、滑り、廻り、飛び、そして四肢をしなやかに曲げては、観客へと微笑みを零す。
ぽけぇとそれを観ていた脩平はドキンと心臓の鼓動が強くなった。
一男子学生の動揺に意も解さず、スケーターは軽く2,3度くるりと廻った後、やがて白鳥のような手先を、ふい、と上にあげた。
一瞬の沈黙、のち会場から盛大な拍手が沸きあがる。それで脩平は、ようやくあれは終了の合図だったんだと気付いた。

競技はすべて済んで、選手が表彰されるだけとなった。
表彰台の上の全ての笑顔が輝いて美しい。
脩平は、その笑顔にそっと自分の幼馴染の顔を重ね合わせてみるのだった。
時たま彼女は天に抜けるような笑顔を見せる。 しかしそういえば、最近そのからっとした笑顔も見ない。長じてからはただ穏やかに、そっと微笑むばかりだった。
「スケート、上手かったよな、霧島……」
幼いころに共に行った、少し遠い場所のスケートリンクを脩平は思い出す。
子どものスケートなんてたかがしれているかもしれない。けれども、さといのスケートは子どもながらに安定していて、どこか芯があり、何よりかすかに優雅だった――ことを、おぼろげながらに記憶している。
「思い出は美化されるものだよ、少年。」
脩平は自分に向かってぽつりと呟き、テレビのリモコンを探る。あれ見つからない、と思ったらくみ布団のなかにもぐりこんでいた。取り上げてテレビに向かって電源ボタンを押すと、ピッと音がして選手の曇りのない笑顔が消えた。
「あーあ、」
と脩平はリモコンを放り出して畳に倒れこんだ。
炬燵の端から見えるベランダの窓は、灰色につめたい街を透かす。今にも雪でも降りそうな天気だった。
「さとい」
両目に自分の腕をのせて脩平は呟く。笑顔、泣き顔、困った顔、さといのみせる表情の全部が、脩平の脳内をぐるぐると回っていた。何に向けたわけでもない甘い舌打ちをし、脩平は身体を起こした。
「仕方ないな」
何が仕方ないのか本人でもうやむやだった。強いて挙げるならば、自分にさえなかなか本心を表そうとしない己の心だろうか。
脩平は本棚にしまわれていた、この近辺のガイドブックを引っ張り出してぱらぱらめくる。それにしてもずいぶん古い。何年前のものだろう。
まあいいや、と脩平は自分のスポーツバッグにそれを放り込んでから、続いて携帯と財布も次々投入してジジッとチャックを閉めた。

脳裏をかすめるのは橙の色、ビタミンの色。スケーターの纏った華やかな衣装。
今でもさといのスケート技術が上手いとは限らない。しかし脩平は、技術抜きにしても―たとえうまく立てずに何度か尻餅をついたとしても―とにかく、さといの滑る姿を観ただけで俺は確実に幸せになるに違いない、という妙な自信があった。
――それにしても、フィギュアスケートの選手の纏う、あの薄布を張り合わせただけのような華奢な服飾は。
脩平はさといがそれを身に着けて滑る姿を想像しただけで心臓をわしづかみにされ、あわててすぐに想像を打ち消した。
確かに似合うよ。そりゃ。だってさといは目鼻立ちがわりとくっきりしてるし。だから化粧もあんまり濃くはしなくていいんじゃないか? あのオレンジも、さといには合うはず――でも、でもさ!
脩平は思い余ってスポーツバックを肩に掛け、外に飛び出した。案の定、屋外はまだ肌寒い。
携帯を出して、脩平はさとい宛にメールを打った。
――服の安い店を知ってるんだ。さといに合うオレンジのセーター、あったら買ってくけど。ついでにな。これからそっち行くよ。
二人の間にそんな長い言葉はいらない。
すぐに送信し終え、ふ、と脩平は、何気なしに空に目をやる。
――街には今、白い妖精が幾片もくるくると舞い落ちはじめていた。





07.3.23
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