空高く、世界が始まる



「最近、セザンヌ君の姿を見ないんだ」
困惑気にピサロさんは云う。


僕とピサロさんは市内を流れる大きな川の写生をしていた。
時々吹く風で雄大な川にさざなみが立つ様子は、確かに画家としては心魅かれる。 
だけど、大きな河川のほとりにいるということは半端なく寒い。
このままでは、鉛筆を持つ手に霜焼けができそうだ。
あまつさえここは12月の曇天の下、いつ雪や雨の混じりものが降ってきてもおかしくない気候。
こんな時期に外で川の写生をしようなんて提案をしたピサロさんもピサロさんだし、二つ返事で了承した僕も僕だ。どこか頭がおかしかったんじゃないか。
まあ、なめてかかって防寒をちゃんとしてこなかった僕も悪いのだけれど。
隣にいるピサロさんの、寒さなんて気にしないという年長者らしい余裕さえうらめしかった。
こうなったら早くスケッチを済ませて、家路につこう。
あ、でもその前に、カフェに寄って熱っついココアでも飲もうか。
ついでにマフィンも食べたい、とびきりふっかふかで美味しいやつをひとつ。
―なんて早々に甘い誘惑にかられていた矢先の、突拍子も無い話題だった。


「セザンヌが?」
思わずぽかんと聞き返してしまう。
はっきり言ってあいつのことなんてどうでもいい。
僕の描いた芸術的センスあふれる絵をぶち壊しにした代償は大きい。
いやそれ以前に、進んで人の弱みを握ろうとするなんてイヤらしいヤツにも程がある。 あんなことばっかやってたらぜったい大成しないぞ、あいつ。
そんな風に過去の因縁に腹を立てている僕とは対称的に、ピサロさんは心配そうな顔つきをしていた。
「うん、印象派展の打ち合わせにも来ないし、今日だって本当はセザンヌ君も来るはずだったんだよ。なのに彼の家を訪ねてみても誰も出ない、部屋の中にも誰もいない」
「へぇ」
「興味ないの君……仲間が行方不明かもしれないっていうのに」
「同じ印象派なのは認めますけど、僕はセザンヌに仲間意識を持ったことはないです!」
「そう……まあ、同じ印象派どうし仲良くしようよ。ね」
ピサロさんはちょっと溜息まじりだった。
考えてみれば、印象派は個性的なメンバーばかりが顔を揃えている。 もっとも僕がその中の一人とはどうしても思いたくないんだけど。
ともかく、僕達は絵に関する主義の共通点さえなければ、てんでんばらばらで一つに集うこともなかったと思う。こんな変わり者ばかりのグループを、長になって束ねていくのは大変なことなのかもしれない。
「ところでピサロさんはどうしてセザンヌ野郎の部屋に入れたんですか?」
「一応の同志に野郎って君……私が彼の部屋に入れたのは合鍵を持ってたからだよ」
「合鍵を、」


セザンヌ君は普段平穏そうに見えて内側では何考えてるかわからないタイプだから、人の目には時々とんでもない行動をしているように見えるけど、彼の中では全部筋が通ってることなんだよ。


ほかほかのハニーマフィンをかじりながら歩く帰り道、ピサロさんの言った意味深な言葉がずっと気になっていた。
要するに奴がただの変態かつ奇人な画家ってことじゃないか。
聞けばエクスでの幼少期にもいろいろな武勇伝があるらしい、それ以上聞きたくもないけど。
もっとも僕はセザンヌの存在自体が気になった訳じゃなかったから、すぐに忘れてしまった。


そして話は数日後の午後。
おりしも朝からの雨脚が強くなりかけているころだった。
その日僕は何もする気がせず、一日中ベッドに寝転んでは、ぼんやり窓の外の景色を見ていた。
雨の日の世界は紺色で、低く響く雨音が、静かに街を濡らしている。
時折ぱつぱつとガラス窓に雨粒がはじける。
粒は独特な軌跡を辿って下まで流れ落ち、サッシに溜まってはやがて溢れた。その繰り返しの、とめどない光景。
雨は好きじゃないけれど、だからといってこんな暗い日には何をする気も起きなかった。とろりと眠気を感じて瞼を閉じる。
慈雨の降り注ぐ音に包み込まれて、いつの間にか眠ってしまっていた。


ガタッガタッ、と不穏な音で目が覚める。
眠い目をこすりこすり外を見やると、どうやら、さっきまでの情緒のある雨はどこかにいってしまった模様。
ひっきりなしに窓辺へ強い風が叩きつけていた。そのたびに窓はシャワーを強く当てた時のようにざざぁと鳴って、ガタガタするガラスと窓枠との間から雨水が染み出してくる。
それで製作途中の絵のことを思い出してさっと青ざめた。あれは相当湿気に弱いはず。
僕は過去稀にみる俊足でカンバスを保護すると、積み重なった古新聞の上にそれを置いて、なけなしの石炭を近くに撒いた。信頼のおける画家仲間から教えてもらったこのやりかた、ただのおまじないみたいだけどやらないよりはいいかもしれない。でも石炭2,3個で本当に効くだろうか。そういえば玄関のバケツにもっとあったかもしれない。バタバタと急いで取りに行った。
このボロアパートごと吹き飛んでしまいそうな雨嵐が絶え間なく叩きつける。びゅぅうううと強い風が来たり去ったりする。今にも抜けそうな床がギシギシいう、せめて今日だけは待ってくれよ、と空に念を送る。でもその思いは空しく散った。三度目の正直とばかりに、寝室の窓辺に強風と鉄砲水みたいな勢いを持った雨水が叩き込まれ、木枠から外れたガラス板が飛びこんできて床を流れた。思わず音のない悲鳴をあげる。幸いカンバスは廊下にあったから直接の被害はない。でもこれはそろそろやばいんじゃないか。
慌てて窓辺に走りよる。必死でカーテンごと窓枠をおさえた。しかしまた風が強く吹き込んで、非力な僕は弾き飛ばされてしまう。机上にあった幾枚ものスケッチが飛ばされて雨とともに舞った。手を伸ばして捕まえようとするももほとんどがひどく濡れているか、あるいは外に舞い飛んでいってしまった。また音にならない悲鳴。
観念して廊下に逃げ出す。
木の床がギシギシという。足をかけて凹んだ隙間から下の部屋が望めたのはたぶん見間違い。
カンバスを取り上げて靴箱の上に置く。この際絵の痛みなんてあとでどうにでもなる。と思いたい。
そのあとはどうしようもなくて、玄関扉のそばに座りこんだ。
とりあえずここならいつでも逃げ出せる、いや今は外に出るほうが明らかに危険なんだけど、心理的にここにいたほうが落ち着けた。暴風雨はまるで悪質な借金取りに似た体当たり的なノックを続ける。
最初は烈風の仕業だと思っていた。しかし雨風が一瞬遠くへ行った間にも玄関の戸が大きく叩かれるので、僕は疑問を抱いた。本当に誰かいるのか?こんな嵐の日に?
開けてみようか、いや待て、今戸を開けると今度こそ家屋崩壊の危機だ。しかし迫りくる好奇心には勝てない。またびゅぅぅううと脅すような疾風が来ては去り、それでも戸は叩きつづけられ、僕は考えを決める。ほんの1センチだけ開けて、ほんとにそっちに人がいるかだけ確認してみよう。
もし借金取りだったら嵐から匿ってあげるかわりに借金帳消しにしてもらおう、なんて馬鹿馬鹿しい考えを抱いて―。


ノブを押した一瞬に、世界が白くフラッシュする。思わず目を細める。
続いてゴロゴロと遠雷のうなる音がした。ああついに雷まで、ぼやぼやしている時間はない。人影を確認する。来訪者は確かにいた。しかしその人物に驚いて思わずドアを半分も開けてしまう。
力を抜いてしまうと風につかまりそうになったのであわててノブをしっかり持った。


「……セザンヌ?」
こんな大嵐のなかで全身びしょ濡れで、いつも整えている黒髪がかき乱されてさながら悪魔のような風体だった。セザンヌは言う。
「ルノワール、君は家にいるのになんでそんなに濡れ鼠なんだ?」
何からツッコめばいいのかわからない。
今までどこに行ってたんだとか、なぜここにいるのかとか……だいたいセザンヌ野郎、この大嵐の中なんで平常心なんだ。そして濡れ鼠なのは君もだぞ。
「君、今までどこに行ってたの? それと、なんでここに?」
僕の言うことなんか耳に入っていない様子でセザンヌは噛みつくように叫んだ。
「食い物を出せ! あと飲み物と、スケッチ用の紙」
なんだこいつ、こんな日にいきなり人の家に来たと思ったら、こんな要求をするなんて図々しい。
それに、明らかに変だ。
「セザンヌ、君、ぜったいおかしい」
セザンヌの後ろをポプラの大枝が飛んでいくのがみえ、建物にぶつかりひどい音をたてた。めしゃり。
「早く、」
「ねえ、家に帰って医者に」
診てもらったらいいんじゃない、という僕の親切心あふれる言葉はみなまで言えなかった。
続けざまに地の底が唸る。
「 早 く ! 」
そして視界が白く輝いたかと思うと、地上にあるもの全部握りつぶすような落雷が聞こえる。
目の前の男は嵐も雷もみえていないかのように、髪を顔にはりつけたまま、ただ口をひらいて再び叫ばんとしている。
その双眸は闇の色で黒く塗りこめられている。半ば狂人じみて見開かれた瞳孔はてらてらとした光を宿し、それはさながら深すぎる血の色。
――捕食者の眼だと思った。
「そこで待ってろよセザンヌ!」
いたたまれないし何より引き込まれるのが恐ろしかった。
廊下を走ると、きしみに加わってびちゃびちゃと音が立つ。ついにここまで水が侵入していた。
キャビネットの籠にワインとパンがあったので急いで取る。一片のチーズもついでに。
もしかしたら少しカビてるかもしれないけどあいつの空腹が満たせればとりあえずはそれでいい。
そして紙。まともな紙なんてもうこの家にはないみたいだ、と強盗集団に襲われたような寝室をちらりと見て直感する。
でも何も今、絵を描くことはない。あいつはなんだか知らないけどがお腹がすいてるんだろうから、満腹になれば瞳に宿るあの怖さもすっと消えてなくなるはず、そう信じたかった。
希望を信じ―玄関先まで走り寄って―ドアを開ける。
やはりそこにセザンヌはいた。持ってきたワイン瓶とパン、そしてチーズを全部セザンヌに押し付けた。
「ほらこれ全部やるから早く家に帰りなよ! 僕んちなんかもうこんなんで、もうとっくに家なんていえないけど、君の家はどうせこことは全然違うんだろ。 もっとがっしりしてて暖かくて、」
「紙は、」
「ああ、紙。 この雨でのせいで、うちにはもうちゃんとしたのはないみたいだ。 ごめん、画家失格だろ」
「……無いのか!」
彼は絶望を口にする。但しそこには文句ひとつも礼の言葉ひとつもない。セザンヌはくるりと踵を返して、吹きすさぶ暴風雨の中をよろけ一つもせず去っていく。僕は階段を下りるセザンヌの後姿をあっけにとられて見ていた。
隙間から噴きこむ水しぶきが裸のままの足を濡らしても、その冷たさには疎かった。




「え?セザンヌ君に会ったって?」


街はすっかり雨が上がり、湿り気を帯びた生暖かい風が通りを駆け抜ける。
ぼんやり歩いていて、うっかり水溜りに足を突っ込みそうになった。
( あーのクソンヌめ、ちくしょぉ…… )


さっき角のカフェでピサロさんに会い、数日前のひどい雨嵐についてお互いひとしきり驚きあった。 
ピサロさんの家も、僕の家ほどではないにしろ、外のものが飛ばされたり窓にひびが入ったりしたらしい。
「大変だったね、君の家も」
「はい。 しばらくは荒れた部屋の片付けに専念しないといけないんです」
「私の家もガラス張替えぐらいはしないといけないみたいだ、飛んで割れた鉢植えの掃除も、嵐で飛んできた得体の知れないゴミの処分も」
ピサロさんはそう言って溜息をつく。
飛んできたゴミ、でなぜか僕は空を飛ぶポプラの枝を思い出した。
そうあの嵐の日、ポプラが飛んで建物にひどくぶつかったのだ。それはいつだっけ、そう、それはセザンヌの肩越しに。
「言おうと思っていましたが、あの日、僕んちにセザンヌが来ました」
「ああ、君の家に来たんだ、良かった! セザンヌ君はまだ無事だったんだね」
あの子は―僕はピサロさんが、セザンヌのことを"子"と表現するのがおかしくて仕方なかった―昔からああいう雰囲気だけど、今回ばかりはさすがにあんなひどい台風の中で、怪我でもしてやしないかと心配だったんだよ。そうピサロさんは言った。
「たぶん……、ああ、でも」
僕が100パーセント断定できなかったのは、帰り際のセザンヌの態度が気にかかっていたからだった。
あのときセザンヌが端的に口にした絶望。あれは奴の心にどう影響したんだろう。
おバカなこと考えてないといいけれど。 たとえば、ピサロさんが悲しむような。
「ルノワール君?」
ピサロさんは黙ったままの僕を見て、心配そうに声をかけた。
「あ、すみません。僕にはそれからセザンヌがどこへ行ってしまったのかわからなくて。 ……本当にごめんなさい。 奴を見かけた瞬間ひっとらえておくべきでした」
「いいよ、セザンヌ君はああいう性格だから。 彼は人に拘束されることを何より嫌うんだ」
確かにそうかもしれない。
でも僕はピサロさんの目に哀しみの色を見つけたから、いっそうセザンヌが許せなくなった。
―セザンヌのバカ!バカうんこ!ヒゲちぎれろ!



それでもなんで、あいつは僕んちなんかに来たんだろう。
セザンヌの家は僕の家とそんなに近くないはずだ。
まあ、放浪しているなら家にいないに違いないけど、それでもピサロさんにでも頼ればよかったはず。
それに僕も切羽詰った中からいろいろ恵んでやったのに礼一つ言わず、あいつ何様だ本当に。
家に帰りついて、悲惨なままの家を眺め回してまた溜息をつく。
どこから手をつけていいやらわからないもので、とりあえず外に穴の開いたところはやみくもに板で塞いだけれど、ガタガタになった家具やらうかつに走れない廊下、床にもあちこち水しみができた。それに、もうどうあがいてもダメかもしれないあの絵にも、僕はこだわったままだった。
あいかわらず問題は山積みのまま。
僕にとっては寝られてちょっと食べられるぐらいの家でよかったのに、これだからボロアパートは困る。
でもいつかは僕も世に出て、すっごい立派な家を建ててやる、あの姑息なバカンヌが腰抜かすような。僕はかかえていた大きな袋をどさりと机の上に置いた。
中から出てくるのはスケッチブックと真っ白な紙の束。
あの絵だってもちろん惜しいことには変わりない。けど、これでまた新しい絵を描きはじめてやろう。
まっさらなスケッチブックを手にすると、また僕は外に出る。


まだ街のあちこちに残っている雨水に、まばゆい光が反射してきらめきを放つ。 パリの街はいつもの数倍も輝いて眩しかった。
そして僕は近所のお気に入りの公園に足を踏み入れる。
公園といっても中心街のにあるものほど立派で大きくはない。
ただ無造作にベンチがいくつか置いてあるだけだ。 でも、ちょうど小高い丘の上だから、街を上から眺められる。
雫を落とす木の枝を払いのけながら、やっと頂上に着いたと思った瞬間、僕は絶句した。そこには見知った孤高な後姿がある。
「セザンヌ!」
さっと振り向いた顔は、恐ろしいほど健康的だった。
「ルノワール。 久しぶりだな」
「クソンヌ! お前ったらほんとにもう! 心配かけさせやがって」
「何、心配してくれてたのか。 ありがたい」
感情も何もこもってないような物言いが腹立たしい。
「僕は心配なんかしてないって。するわけないじゃないか。
ただピサロさんが君がいなくなったといって僕に相談してきたから」
「ピサロさんか。 ……また迷惑をかけてしまったみたいだな、私は」
本当だよ、と僕は溜息をつき、ふとセザンヌが手に持っているくしゃくしゃの紙がちらりと目に入った。
茶色けたそれは広告の裏のよう。取り上げて広げる。
「あ、止めろ」
鉛筆の数本の線で、遠くの山とパリの街が簡潔に表されている。
「これは、ここからのスケッチ? まったく、何日もうろうろしてたかと思うと」
「ただの遊びだ」
ったく。僕は紙を元のようにくしゃくしゃにしてぽいと投げ出した。
「僕の家まで来て、貧乏人からなけなしの食べ物を奪うような真似をして、一体どんな傑作ができるかと思ったら。 まさかこれは売れないなぁ」
「だから単なる遊びだって言ってるだろう。 それに進んで物資を提供したのは君じゃないか」
「だって僕はピサロさんによろしく頼まれてたんだから。 君の面倒見ないわけにいかなかったんだよ」
「そうなのか」
らしくもなくセザンヌは苦笑を浮かべた。
その目からはあのぞっとする色はすっかり消えていて、一安心する。
「もし君がそのラフを完成させる気があるのなら―もし完成させたら、それは僕のものだ」
「誰がむざむざお前なんかにやるかバカ。 でも、この光景は素晴らしいな」
セザンヌは街に目をやった。僕もつられて眼下に広がる街を見る。
「それにしても、あんなにひどい嵐は久しぶりだな、あれはこの上なく面白い」
「僕にとっては面白くもなんともなかった」
こいつは遊んでばかりいられるいいご身分だよ。 僕はあのとき家を守るので必死だった。まあ、ほとんど守れなかったけど……。
ふと見るとセザンヌの足元に空のワイン瓶が転がっていた。それは僕がやったものだ。なんとなく拾い上げてみる。
「君があれで何かを得たならそれでいいさ。 でも迷惑かけすぎだよ君」
「ピサロさんには申し訳ないってさっきから言ってるだろう。 第一君への迷惑は迷惑じゃない。 ただ借りを返しただけだ。 私のせっかくの絵をドガさんの体液でめちゃくちゃにしたのは君だろう」
「それなら君だってそうだろ! 変なおっさんの頭の形に穴が開いちゃったんだから!」
「私は変なおっさんではない。 それにもうあれは日の目を見ないだろうし、さっさと燃やしてしまうのがいいな」
僕はセザンヌの腕をつかんだ。
「僕の描いた絵をどうしようと僕の勝手! ……じゃあそろそろ行こう、セザンヌ。 街には仲間も待ってる。 さっさと顔見せて安心させて、それからごはんにしよう」
「奢ってくれるのか」
僕は思わず持っていた瓶を構えるふりをした。 
「誰が奢るか! 君ほんとアホ!アホンヌ!」
「冗談だ」
セザンヌは口の端をちょっとつり上げて笑い、「むしろその逆のことをしたい」と言う。
その意味を考え、僕は一瞬言葉をなくした。
「……セザンヌ、やっぱ君どっかおかしいんじゃない? まさか君がそんなこというなんて」
「借りは返すさ。 ほら、行かないのかルノワール君?」
チィッ。急かされて仕方なく、僕はセザンヌの腕を離した。
「それじゃあ行こうか」
セザンヌの顔には不敵な笑みが。


気づけば雨の名残は乾きはじめていた。
雲ひとつない青空には薄く虹の橋がかかって、
街には少しずつ人の気配が戻りはじめている。
冬眠から覚めたばかりのようにざわめく街を縫うように歩いて、僕らは通りに出た。
いつものカフェにはいつもの顔なじみの画家たちがいて、いつものように語らったり、あるいは論争をしたりしているんだろう。
きっとそこにはピサロさんがいて、行き過ぎて喧嘩みたいになったそれを、困った顔で止めている。
そして僕の隣のセザンヌの顔を見たら、きっとものすごく喜ぶに違いない。


なんてことない日常がまたひとつ、幸せの兆しを見せる。



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