tu ou vous.

「……眠たい」
ルノワールの大きな瑠璃色の瞳に、長い睫をそろえた瞼が段々と落ちかけていた。
しかし瞳の半分を少しほど閉じたところで、ルノワールははっと我に返り慌てて瞼を上げる。しかし意思とは無関係に瞼は徐々に下がっていく。そしてまたハッとする、その繰り返しだった。
意固地になって眠るまいとしている視線の先には、椅子に掛け、ランプ燈の下でスケッチブックに鉛筆を走らせているセザンヌの姿があった。
「好きなだけ眠ればいいだろう」
セザンヌはただ絵を描くことにだけ集中していて、シーツに包まってもぞもぞとこちらを観察しているルノワールには少しの視線も遣らなかった。
ルノワールは意地と眠さの入り混じった声で言った。
「そうはいかないよ。だって君が起きているんだから」
「そんな義理は必要ない」
「そうじゃなくて……」
セザンヌの冷めた言い様に、ルノワールは、ぽすりとクッションに顔をうずめた。
「……そうじゃない、そうじゃなくて、」
うまく思ったことを言えない子どもみたいに駄々をこねたあと、ふとルノワールは顔の上だけあげてセザンヌを見る。
でも、頑なにデッサンを続ける様子はさっきと寸分変わっていない。
しょげたルノワールはクッションを抱いてベッドに躰を預けた。
「君に訊きたいこと、が、あったんだ……けど、もういいや、おやすみ」
呟いて、ルノワールは今度こそちゃんと、瞼を閉じた。
ぐるぐると廻りながら、身体から意識が落ちてゆく感覚。ゆっくり2,3回呼吸したら、もう次の朝だろうな。ルノワールはおぼろげになる意識の端っこでそんなことを考えた。

それから少しして、ふいにパタンとスケッチブックを閉じて、セザンヌはベッドの方に歩み寄る。
「おい、ルノワール君」
長枕を抱いて眠るルノワールからは、すうすう、と安らかな寝息が聞えてくるばかり。
セザンヌは手をかけて揺すってみた。何回めかで、ルノワールは薄目を開けた。
「ルノワール君、」
「な、なに……」
目覚めたばかりのルノワールは、小さなあくびをしたあと眉を寄せてセザンヌを見上げた。
「さっき訊きたいことがあるって言ってただろう、」
「何、ああ、あれかぁ……。 うん。」
ルノワールはうんと伸びをして、ベッドの上に身体を起こした。
「ていうか……、なんで眠ればいいって言っといて起こすわけ? 信じられないよ」
まだ真夜中じゃないか、とルノワールは辺りを見回して、またあくびをかみ殺した。
「付け加えるが、まださっきから30分も経っていない」
「……普通そんなこと言う?僕をいじめてそんなに楽しい?」
「つまらんかそうでないかといえば、もちろんつまらなくはないが。
さあ、君の質問とは何のことだ。早く言いたまえ」
その言葉にちょっと機嫌を悪くしたルノワールは、憮然として言い返した。
「こんなの明日だっていいじゃないか、そうだと思わない?」
「思わん」
「どうしてそんなに意固地になるの」
「気になったからだ」
へぇぇ、とわざとらしくルノワールは云う。
「気になったならそのモヤモヤを抱えたままベッドに入ればいいだろ。どのみち明日にならないと分からないんだ……あ、でも僕明日は人と会う約束があるんだった! じゃあ明日の夜まで、君は一日中そのモヤモヤを……」
「それが厭だからだと言っているのが分からないのかルノワール君」
セザンヌがキッパリと言い放つと、よけいに拗ねた様子でルノワールはベッドに倒れこんでシーツにくるまった。
「分かるよ! でもどうしたって今日君には、あんまし言いたくない。おやすみっ」
白いシーツにくるまったルノワールの姿はさながら雪山のよう。
セザンヌは溜息一つ吐いて、バスルームへ向かった。


――なんかもう、シーツまみれ、というか。
セザンヌがバスルームから出てくると、寝相があまりよくないルノワールはシーツにむちゃくちゃに絡まっていた。
流石に2度も起こすのは気が引けたので、もう一枚シーツを上から被せ、その中にセザンヌももぐりこんだ。
しかし寝相の悪さは少なからず被害を及ぼすもの。夢うつつのルノワールに脛のあたりをガンガン蹴られて頭にきたセザンヌは、知らぬ顔ですうすう眠っているルノワールの肩を掴んだ。
"vous" 、」
「それが、や…」
ルノワールの口から、ぼんやりした言葉が漏れる。
「え、」
おそらく寝言、だろう。
こいつのことなど気にしないで寝てしまおう、と思ったセザンヌは、ふとまるで小鳥の囀るような音を聞いた。
「"tu()"……て、よん、でよ、」
そこでルノワールは口をぴたりと閉じ、再び眠りについた。
隣で固まっているセザンヌを残して。


朝、セザンヌが目覚めると、隣で寝ていたルノワールの姿はもうなかった。起き上がってキッチンへ顔を出すと、ちょうど朝食の支度をしていたルノワールが振り返った。
「おはよう」
「私は寝坊したみたいだな」
「そうでもないんじゃない? ただ僕の起きるのがちょっと早かっただけだよ、たぶんね。」
で、そのついでというわけ…と、ルノワールは得意げに2つの朝食皿を持ち上げてみせた。
「君には昨日夕ご飯おごってもらっちゃったしね! でも僕のもおいしいと思うよ」
器用に持った2つの皿をテーブルの上に並べつつ、ルノワールはセザンヌに笑顔を上げた。
そこには目玉焼きひとつに、新鮮な色をした野菜サラダ、くわえて、カリカリに焼いたベーコンが2枚。皿からはほのかに白い湯気が立って、ほわわんと暖かい匂いがした。
「極めて普通の健康的な朝食じゃないか、」とからかうような口ぶりでセザンヌは椅子を引いた。
「まさか僕の料理は下手くそなんだって思ってた?」
「君なら毒薬的な朝食を作ることも十分考えられるからな」
「もう!食わせないぞ」
カッカしたルノワールがセザンヌの皿をサッと取り上げたので、セザンヌは「悪かった、」と苦笑まじりに謝って、それを取りかえした。


ケチャップを目玉焼きの上にめいっぱいかけながら、ルノワールは不服げに唇を尖らせて云った。
「ところでさ、君はもう僕のことをそんな他人行儀に呼ばなくていいんじゃないかな?」
「何のことだ」
もっともセザンヌは昨日の寝言を聞いていたため、言いたいことを感づいていた。
――仏語には二つの二人称、vousとtuがある。
その中でも"tu"は極めて親しい間柄でしか使われない。それとは、たとえば――家族、親友、そして恋人など。
ルノワールはじれったくなり、テーブルからガタッと身を乗り出すとセザンヌの前で「テュ、」と小さく発音した。
「……どういう意味だそれは」セザンヌは眉を寄せる。
「分かってるくせに。ほら、こう呼んでよ」
そしてまた、ルノワールはつまる音を幾度もを漏らした。しかしセザンヌに「断る、」とそれを一蹴されると、チェッ、と舌打ちしてルノワールは身体をひっこめた。
そしてルノワールは「でも、」と食い下がった。
「僕は君の事、いつもこうしてちゃんと親しみを込めて呼んでるじゃないか。 いっしょに食事にもいって、こうして朝ごはんも手作りのをちゃんと一緒に食べてさ。そんでもうあんなこともいっぱいしてるのに。もう僕は君の彼女みたいなものじゃないか」
「しかし君は私の恋人ではない」
「……じゃあ、その後に『恋人以上の存在だ』って付け加えるなら今日は許すけど。」
椅子の背もたれに腕をのっけて、ものすごくふざけた口調でルノワールは言った。
セザンヌは食べ終わった皿を流し台へ持っていく途中に、ルノワールの頭を軽くはたいた。
「誰が言うかアホヒゲ!」
「あ、アホって言ったな!! ……でもやっぱ言わなくていいや、かえって気持ち悪い。虫唾が走る」
「呼び方を変えるのは気持ち悪くないのか? ドアホなルノワール君」
「うわこいつアホにドをつけやがった!! さいってー!」
ぎゃあぎゃあ喚きながらも、ルノワールは同じく食べ終わっていた自分の皿を取って、流し台に直行した。
しかしここは狭いアパルトマンの台所、男の身体がふたつも並ぶと――ルノワールが極端に細身だというのを抜きにしても――やはりどうしても窮屈だ。
うっかりケチャップのべっとりついた皿がシャツの袖につきそうになる。セザンヌは間一髪のところで被害を避けたが、我慢ならなくて隣に向かって叫んだ。
「ルノワーーール!! 君もちょっとは気をつけろ!」
「何言ってんだよセザンヌ野郎!! 君が注意しなかったのが悪いんだろ!」
「いや君のせいだ、第一君がこう親の敵のようにケチャップを付けまくるから」
「ひとの好みをごちゃごちゃいうな!! おいしいんだぞケチャップ!!」
「いや私は、完璧なる塩派だが?」
「ム、ムキーッ!! なんだよ南部出身のくせして!ケチャップかけんぞ!!」
「それこそよけいなお世話だルノワール君!!」
いつも二人の喧嘩はおさまりがわるい。ひいては殴り合いまでになりそうになったところで、ハッと約束の時間を思い出したルノワールが慌てて身を引き、「いいか覚えてろよ!」と、まるで雑魚のような台詞を残して飛び出していった。
そしてがらんどうになったキッチンで、結局ほとんど手付かずだった二人分の食器を自分で片付けるはめになったセザンヌは、不機嫌そうな顔をしつつも、きちんと洗ったのち水を切って拭き、食器棚へ重ねて元のとおりに片づけ、そして昨日のデッサンの続きをやろうと、スケッチブックを探した……が、ない。見つからない。
どこへいったのか、と疑問に思いながら、セザンヌは別のスケッチブックを開いて窓辺の椅子に腰掛けた。


風が、ふわりとカーテンを揺らして入って来、狭いアパルトマンの一室の空気が植物の息吹の匂いをのせた空気に満たされた。春の始まりの緩やかな陽射に満たされた窓際で、セザンヌはふいにかたり、と木炭を置く。パンを取って木炭の線をなぞるように消してゆく。部屋に、ざらざらと独特の乾いた音が響く。
静謐に包まれた部屋でセザンヌは心まで満たされた。そして続きを描くために、また木炭を取った。
そしていつしか昼が来る。セザンヌは大抵時計を碌に見ていないので、12時きっかりに食事をすることは難しい。それでもひとつのけじめとして、太陽の位置が真上あたりにきたことに気付くと、椅子から立って簡単な料理を作り、一人で食べた。


3時頃に画材を仕入れに街に出て、ついでに安売りのベーグルとコーヒー豆を調達して、セザンヌは4時少し前に帰宅した。それから少し、絵を描いた。
そして次第に辺りが暗くなってきて、スケッチブックに向かうのにも電燈が必要になってきたころセザンヌは再びキッチンに立ち、スープと余りのパンで夕食を済ませた。
その後ひと息ついてコーヒーを啜っていたが、ふいにガチャッと音がして誰かが這入ってくる音に目をひそめた。咄嗟に玄関の方を振り向く。そしてその訪問者のシルエットに憮然とした表情をみせながらも、セザンヌは大股で玄関へ行った。
「誰だ、不法侵入する奴は」
入ってこようとする肩を押しとどめて、セザンヌは言う。正面でルノワールが、にっこり笑っていた。
「僕だよ、セザンヌ」
「ノックぐらいしろ、」
「厭、それどころじゃないんだ」
慰めてよ、と、端っこに一粒の涙を浮かべた瞳でルノワールは言った。表情はあくまで笑ったままで。
「私にはそんな義務はない、」
セザンヌはそれを追い返そうとして肩を押し戻す。それに、ルノワールは唇をつん、と尖らせて云った。
「ケチ」
「何とでも云え、」
「でも僕が傷ついたのは、君のことだよ、セザンヌ君。」
「どう云うことだ?」
訝しげな目をあげて、セザンヌは訊く。ルノワールは一瞬してやったりという表情で笑ったが、すぐあとにそれを崩し、下唇を噛んで、泣いているような悔しいような顔をうつむかせた。
「君の事、ね、……とある画商に紹介したんだ。したら、嗤われた。こんな絵買えないってさ。」
「ああ、」
よくあることだった。まったく何も思わないといえば嘘だった、けれど泣くほど傷つくような出来事でもない。
「で、人のこと勝手に推しといて、断られて、勝手に落ち込んでいるわけか。相当な慈善家だな、君は」
「うん、偽善だったかもね。認めるよそれは。だって、君はともかく君の絵には興味あるんだ僕は。」
「何の絵を見せたんだ、」
ルノワールはためらいながら、セザンヌにあるスケッチブックを出して見せた。思わず、あ、とセザンヌは声を出す。
「……君が昨日描いてた、」
「人のものを勝手に持ってくんじゃない、」
「言おうと思ってたんだよ。ついでに君を人に紹介することも。でも、言い忘れた」
「じゃあもともと言うつもりがなかったのと同じじゃないか」
と、スケッチブックを取りあげると、ルノワールはごめんよ、と小さく呟いた。
もういい、と鬱陶しそうに言い切って、セザンヌはスケッチブックの頁を繰る。
ぴたり、とその指が止まる。
――黒く黒く頁が、塗潰されていた。おそらく油性の絵の具で。
「ルノワール君、」
「やったのは僕じゃない。こんなことした奴は芸術家失格だよ。でも、この絵を守れなかった僕も多分そう、」
そして、ごめん、と小さく呟いた。
セザンヌは睫を伏せて溜息をつく。
「本当に君は、」
余計な世話焼きだ。とセザンヌは吐き捨てる。
「わかってるよ。僕が馬鹿なことぐらい。でも、」
「まだ何か、云いたいのか」
「本当に、ごめん。たぶんやったのは画商の家の子どもか、それとも本人か、」
ルノワールの頬に飛んでいた黒の飛沫を指で掬い上げて、たしなめるようにセザンヌは言った。
「もうそんな奴と付き合うんじゃない、」
「わかった」
短い返答ののち、ルノワールは微笑を浮かべる。
「思ってたより怒んないんだね、」
「ああ、あれは別にどうでも」
その気持ちが嬉しかったから、なんて言うつもりもなかった。
ただ上がれ、と言おうとしたとき、ルノワールがぎゅ、とセザンヌの身体を抱き寄せた。セザンヌは、ルノワールの身体にまといつく外の冷たい匂いを感じ取った。
「ねえ、僕は今すごく君が大好きなんだよ、セザンヌ君。君もそうだってわかるまでは離さないから」
セザンヌは苦笑をうかべて、「仕方がない、」とルノワールの背に腕を回すと、その耳元で甘く小さく、小鳥の囀るような音を囁いた。


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(07.03.22)