天国の庭

ダーク・ブルーの夢の淵から、ゆっくりと引きずり出されるようにベルさんは目覚めました。
半開きの瞳には、あたりの光景が霧がかって見えます。ですがぱちぱちと瞬きをしてもその霧が消えることはありませんでした。
身体を起こして見わたすと、辺りはかすかな霧に包まれています。
そして一面にれんげの花が咲いていました。 
さやさやと穏やかな微風が流れる度ごとに、れんげたちもわずかに頭を上下します。そうして花の香りを知った風はみなここにとどまって、周囲はもわんとした甘い匂いで満たされていました。
ベルさんは大きく息を吸いました。
すると濃い匂いの香水を嗅いだときみたいに、頭がくらくらしてしまいました。

ベルさんがふいに立ち上がり、バサ、と草が音を立てました。
遠くから、「さらさら、さらさら、」という音が聞こえて四方を見渡してみると、風にゆらめいているれんげ畑の向こうに、うっすらと透明な流れがありました。
ベルさんは、けぶる匂いをかき分けるように、れんげ畑を進んでいきました。


――そうして川べりまでたどりつきました。
今ベルさんの足元を流れるその川は浅く、さらさら、さらさら、と涼やかな音を立てて流れつづけます。
遠くの対岸は霧で見えず、ベルさんがこれを渡ろうか迷っていたとき、
じゃぼ、じゃぼ
と、向こうから櫂が水を切って近づいてくる音がしました。
そしてしだいに輪郭をあらわにしてくる小舟には、小さな角を生やした人が乗っていて、ベルさんは驚きました。しかし同時に船上の人にもベルさんのことが見えるようになったのでしょう、その人もハッとした顔をしました。そして接近するなりベルさんに訊きました。
「人間界からの方ですか?」
ベルさんは少し迷ってから頷き、あなたもですか、と聞き返しました。
すると、その人は笑って首を振って、
「僕は人間ではありません。僕は、死者の国の閻魔大王の秘書で、鬼男という者です」
と云いました。
鬼男君に小舟に乗ってついてくるよう言われて、先ほど発せられたなじみのない言葉に戸惑いつつも、ベルさんはうんと頷いて乗り込みました。木の板に足をかけると、ぎし、と音がしたので、ベルさんは思わず緊張します。しかし鬼男君といえば慣れたもので、まもなく舟は反対方向をめがけて滑り出しました。

***

「ベル…さん、」

指先で触れたベルさんの首は、いつもの低体温とは似て非なるものだった。
「どう、して、こんな」
指を顎へと這わせると、無精髭のざらついた感触がした。
「僕に云ってくれれば」
僕の頬を伝い落ちるいくつもの涙はいっこうに枯れる気配もなく、ぜんぶシャツの襟に落ちてしみをつくったらしい。首がかすると湿っているのがわかった。
ベルさんの陶磁のように白い顔を覗き込んでも、やはり瞼は―ピクリともしない。
僕は何度目かの絶望を感じて、涙交じりに、どこへも行く当てのない言葉を零した。
「僕が何とかしたのに――」
――いや、果たして僕にできただろうか。
安売りの同情心だな!…と、どこかで自分を嗤う声がする。否、もしかしたらその声は僕自身なのかもしれないけれど。
ベルさんがいつも前にしていた深遠な淵に、僕は惹かれていた―と、云えばいいのだろうか。
漆黒の闇を映す瞳が見つめる先を、僕も一緒に追いかけたかったのだ。ところがベルさんは僕を置いて、一足先に一線を越えてしまった。
――はっきり言えば、僕も彼についてゆきたかった。


だからたとえベルさんが闇に引き込まれる"瞬間"を目にしていても、僕は完全に引き止められなかっただろう。


―そう、すべての原因は僕の力不足だ。
もしくはベルさんの傍に僕なんかを置いた、運命のせい…それか、神様の采配ミス。
水の入ったバケツを暖炉へ向かって蹴り飛ばすと、ジュッとくすぶりながら最後の火はようやく消えた。でもそのかわりに床も広く濡れた。跳ね返りで僕のズボンのすそも膝まで濡れた。でもそんなことは下らないことにしかすぎない。
僕は運命を呪って、部屋の窓から淀んだ空を仰ぎ見た。その窓は、部屋にたまった炭素を出すために全開にしてあった。
――じわり、と灰色の空が滲む。


僕の膝が勝手に折れて床についたのでそのまま突っ伏したら、今度は涙がこらえきれなくてどばどば溢れてくる。それを自分の眼で見ると、またどうしようもなく悲しくなり、
いい考えも悪い考えもこれ以上侵入してこないように――わあわあと外に響きそうな大声で、僕は泣いた。

***

じゃぼ、じゃぼ。
辺りは静寂に包まれて、ぎこぎこと櫂が動く音だけがはっきりと響いています。
舟先は霧の中を切り開くように進みつづけて、まだ対岸は見えそうにありません。
ベルさんは水面に投じていた視線をあげて、鬼男を見ました。小さいツノが2本ついている以外は、ごくごく普通の色黒な青年でしかありません。しかしこの小さな違いだけが、はっきりと鬼男が人間でないことを示しています。
ベルさんは鬼男に訊きました。
「ここは、死者の国なんですか?」
「ええ」
「じゃあ私は、死んだんですね」
「そうですよ」
鬼男の口ぶりは、冷酷ではないにしろ、それほど感情がこもったものでもありませんでした。しかしそのそっけないような口調が、かえってベルさんに事実を受け止めやすくしたのです。
「そうか、私は死んだのか――。」
ぽつりと呟いて、それからどうやって死んだのか、思い出そうとしてもうまく思い出せませんでした。
死んだのは夜だったのか、朝だったのか。とりあえずそれを考えようとしたとき、ふいに舟が大きく揺らいで止まりました。ベルさんが顔を上げると、鬼男が立って「さあどうぞ、つきましたよ」と言いました。



「私の教わってきたことは、死者の国には天使か悪魔がいるとか、そんなようなことだったんだけどな」
違ったのかな、とベルさんは少し明るく言いました。


鬼男に連れられて、ベルさんは土の道を歩いていました。
彼が言うには、ベルさんはこの先の門にいる閻魔大王に、天国行きか地獄行きかを裁いてもらうようです。その後続けて鬼男は言いました。
「すぐに済みますよ、もともと仕事じまいの時間でしたし」
「じゃあ明日、とはならないんですね」
「ええ、……まさか死者をほっとくわけにもいかないでしょう?」
鬼男が言うには、ここには死者の魂の入ってくる門があちこちにあって、ふだん仕事が終わるとそこにかんぬきをかけておくのですが、仕事納めの時間とかんぬきをかける時間とがずれると、まれにその間にちらほらと死者が舞いこんでくることもあるようなのです。
その例がまさにベルさんなのでした。
「魂自体に意識はないから、悪く言えば放っといても平気なんですよ。 でも、ここに入って仮想の肉体を持った死者の魂は、人間とだいたい同じようなものですから、やはり人間と同じような扱いをしなければならないんです」
それを聞いて、わかったようなわからないような顔をして、ベルさんは頷きました。
そして、自分の疑問をふと口に出してみたのです。


失敗した、という顔つきで鬼男くんは頭をかかえました。
「ああ―-、クリスチャンでしたか、貴方は」
「ええ。 まあ、敬虔な信徒とは言いがたかったけれど」
「……管轄のミスですね。 あなたはしかるべき門へ行くべきだったのに、間違ってこっちで引き受けてしまったみたいで」
「でもいいですよ。 ……別にそこまで行きたかったわけじゃないですから」
何よりベルさんの脳裏に付きまとって離れなかったのは、幼少期からずっと教えこまれていた地獄の恐ろしさでした。でも、どうやらここにはそれがないみたいだ、と…ベルさんはさも人間のように頭をかかえている鬼男を見て微笑ましく思い、そして安心しました。



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(07.03.15)