その2


裁きの門まで辿り着くと、鬼男は重そうな扉を押し空け、顔だけ突っ込んで閻魔大王を呼びました。
「すみません僕の手違いで今から一名様ご案内で…うわっ」
鬼男は中に向かって言いかけ、その後「何してるんですか大王!このタコ閻魔が!」と叫びました。ベルさんの肩がびくっと震えます。中から反撃する声が聞こえます。
『タコ!!? いつから私タコになっちゃったの!? あっでもイカよりタコのほうが…』
「うるさい! ていうかどっちも同じレベルだよ多分!」と、鬼男はまた怒鳴ってから、びくびくしているベルさんのほうを振り向いてにっこりと微笑んでみせました。
「ご心配なく……、少々ここでお待ちください。 手続きとかいろいろ」
と、鬼男は中に入っていきました。ベルさんは中から聞こえるギャーとかワーとかいう騒々しい音に一々心配になりながらも待っていました。
そして数分後、「お待たせしました」と扉が開き、笑顔の鬼男君が姿を見せました。
「どうも、僕のバカ上司が僕の足を引っ張るので時間がかかってしまって」
「ああ…」
案内された部屋には、満身創痍といった体の――鬼男の話によるなら「閻魔大王」が打ち捨てられていました。閻魔大王は震える腕を鬼男の方に差し出します。
「お…鬼男君…ちょっとは手加減してくれたって…」
「だったら最初から僕にちょっかいかけなければいいじゃないですか、ほら、仕事してくださいよ」と、鬼男は手を伸ばして引き起こします。
調子に乗った大王は、かわいこぶって上目遣いをしてみます。
「でも閻魔、寂しかったんだもん……だいたい、ずっと忙しくて鬼男君と遊べなかったじゃないか。だからやっと今夜は鬼男君と夜の運動会ができ」
鬼男君は起こしたばかりの閻魔を問答無用で殴り倒しました。
すると大王は変な擬音をたて、ありえないほど床を滑ってから止まりました。
鬼男はカツカツと大王の前に歩み寄って、上から怒鳴りつけるように言いました。
「金輪際僕が勘違いされるようなこと言わないでくださいよ!」
「だってほんとのことじゃない……。運動会、誘おうと思ってたのに」
「例え暇があってもオフをあなたと過ごしたくないですよ、悲しすぎます」
ううう、と大王は打たれたところを押さえて立ち上がりました。
「で…、なんなの。お客さん?」
「そうですよ、すいません僕の不祥事で」
と、鬼男は後ろでちぢこまっていたベルさんを大王に紹介しました。
「へぇ…、アレキサンダー=グラハム・ベル か、外国人なんて珍しいな」
大王は戸棚から和綴じの本を引っ張り出して、ぱらぱらとめくりはじめました。
「ア、ア、ア、……ああ、あった。……へぇ、電話の発明を? すごいなぁ」
「いえ、もう昔の話ですよ」
「でも貴方は人間界に相当貢献していることですし、天国行きは間違いないでしょう」
横から覗いていた鬼男もそう口添えしました。
「天国へ、」
と、ベルさんはぽつりと呟きます。
しばらくして閻魔大王は和綴じ本をパタンと閉じると、笑顔を上げました。
「うん、君は天国行き!」
「よかったですね」
と、鬼男君が笑いかけます。そして部屋からのびる長い長い階段を手で示して、「あの階段の先の扉、その向こうが極楽です、どうぞお幸せに」
「あ、ありがとうございます……」
ベルさんは少し憂鬱げに、お礼を口にします。その様子を不審がった大王はベルさんの顔をのぞきこんで、鬼男君に云いました。
「ん? どうした、なんか元気ないみたいじゃないかこの人、なあ鬼男君」
「あ、本当だ……。天国ですよ、嬉しくないんですか?」
「いえ、嬉しくないわけでは」
とベルさんは二つの視線から逃れるように、目線をそらしました。
それを見て、閻魔大王は困ったように顎を指でさすりつつ言いました。
「……もしかして、誰か遺してきた人のこととかか?」
それを聞き、ベルさんの目線は即座に大王に釘付けになりました。
「え、」ベルさんの射抜くような視線を受け、大王は指を止めてぽかんとします。
ベルさんは今度こそはっきりといいました。
「そうです、私には残してきた大事な人がいるんです」
「また、会いたいんですか?」
鬼男の質問に、ベルさんはただうなづいてみせました。
「その人の名前は?」大王は本を再び取って、めくりはじめようとしています。
ベルさんはそっと名前を告げました。
「……トーマス・ワトソン君、です」
「ワトソン君、ね。…あったあった」
「あなたの助手でしたか」
しかしその頁を読むごとに、閻魔大王の眉間の皺が次第に深くなっていきます。ベルさんは何か問題でもあったかととてつもなく不安にかられました。
「ふうむ」
どうしたんです、と横から覗き込んだ鬼男も、
「ああ、」
と云ったきり絶句してしまいました。
それを見ていたベルさんはたまらずに訊きました。
「何かあったんですか」
閻魔は遠くを見るような目つきをし、そして、ぽつりとベルさんに言います。
「何にもない。だけど、確実に幸せだよあんたは。 安心すればいい」
閻魔のしらっとした横顔を目にし、鬼男は何か言いたげに口を開きかけましたが、やはり何も云わずに口を閉じました。そして、
「さあ極楽へ、ご案内致しましょう」
とベルさんの手首を引きました。
「あ、私はまだ……」
まだ逡巡しているベルさんへ向かい、「ベルさん」と鬼男はきっぱりと言いました。
「ここは人が長居するところではありません、裁きを受けた人間はすぐに去らなければ、」
そうはっきりと言い切ったとき、


――閻魔の手からするりと帳面が滑り落ち、ぱらぱらと頁がめくれました。
ベルさんはすかさず鬼男の手を振り払い―鬼男も驚くほどの力で―帳面に駆け寄りました。
咄嗟に掴んで頁を繰りなおす、その姿があまりに鬼気迫るものだったので鬼男は口もきけず止めることもできませんでした。
ぱら、とある一頁でベルさんの手がとまり、ベルさんの視線ががすらすらと追います。そして目が終わりの行まで行き、ぴたりと止まった後、ベルさんは呆然として本を取り落とし、やがてか細い悲痛な声を上げました。


――そこには、その日の日付と、SUICIDE.の文字が確りと刻まれていました。意味は「自殺」。
この世界は概念で構成されているので、ベルさんが読んだときはベルさんの常用する英語としてあらわれ、はっきりと理解させることになったのです。
よく見るとその理由がその下に大変細かな字で綴られています。いや、明確な理由というわけではなく、ただワトソン君の矛盾と逡巡を繰り返す、死の一歩手前の心象風景が彼の言葉のまま表れていました。





***



ベルさんが死んだ。それは認めるか?ああ、認めよう、それは事実なのだから。全てにおいてこの世のことは事実と事実でないことにはっきりと分けられる。ベルさんが亡くなったのは事実。僕がここに生きているのは事実。酷く明快!証明する理由もないくらいだ。僕とベルさんは一つ川を隔てて――これは単なる僕のイメージで、なぜ川として浮かんだのかは僕にもさっぱり不明なのだが――生きているものと死んでいるものに分けられてしまった。いやベルさんは死んですらいないのかもしれない、もしかしたらどこかで別の個体として生き返っているのかも。――いや、それでは最初に言った事に反する。事実かそうでないかということ。しかしこれはただ単に証明ができていないというだけの話で実際は違う。何が違うのか?さっぱり分からない。いっそあの世界までたしかめにいこうか、事実を探しに。もちろんこれが表層だけの理由だってことは僕にもわかってる、あっちの世界へ行ってもベルさんに出会えるかすら分からないのだから。これはひょっとして後追い自殺なのか?は、笑わせるな、ベルさんがそんなことを望むはずがない。世界の発展のためにも僕は必要だ、と言ってくれるはずだ。あなたはそれでいいかもしれない、でも、でも。


ベルさん、僕にはあなたが必要なんです。



***





鬼男はベルさんの姿に大きく息をのみ、さっと閻魔のほうに目をやります。閻魔は哀しげに目を伏せたまま、自嘲気味に、「ここに至ってまで、人間の心を持っていることは悲しいことだよ。 一度も善い例にあったことがない。」と呟きました。
「言ってる場合ですか!」と思わず鬼男は叫びました。
ベルさんは相当なショックを受けた様子で、空ろな目をあたりに漂わせていました。今なら、なんとかなるかもしれない、と鬼男は踏んで爪を長く伸ばしました。天国にさえ入らせてしまえれば。そして鬼男はベルさんを狙って飛びかかりましたが、しかしそれは横顔を掠ったぐらいで致命傷を負わせるほどには至りませんでした。
なぜならベルさんは次にやることを見つけて、すぐさま外へ駆け出していたからです。
「大変です大王! はやく捕まえに行かなくては!」
鬼男は焦って叫びます。すると「無駄だ、鬼男君」と諦観に満ちた声がして、鬼男はカッとなって大王を殴りつけました。
「このアホ大王が! だいたいあんたがもっとちゃんと仕事していれば……」
「肉体のない魂が、いったいどこへ行けるっていうのさ」
「え」
鬼男はぽかんとして聞き返しました。
「ねぇ鬼男くん。 君はここにどれくらいいるの?」と、大王は口元を卑屈に綻ばせて鬼男へ問います。鬼男は少し考え込みますが、それははるか以前からの記憶でその前がありません。永久とも呼べる長い時間を、彼らはひとつの概念の中で生きているのです。しかしそれが決して短いといえない期間であったことは分かり、鬼男は少し居心地悪そうに訊きかえしました。
「つまり、すでに彼の肉体は消滅しているということですか」
「ざっつらいと。」
大王はにやり、と笑い、
「まああれも可哀想な人なんだけどね。も少しでも仕事の能率を上げたいなら、時には頭も使ってみることだよ、鬼男君」
と久方ぶりに偉ぶった発言をしました。しかし鬼男は何も言い返しはせず、黙って出したままだった爪を引っ込めました。
閻魔大王は床にどっかりと腰を下ろして、道具の入った鞄を引き寄せました。
「まあゆっくり観察してみようじゃないか。今後の有効な資料になると思うし」
パチン、と音を立てて蓋をあけ、中から小さな杖を取り出しました。その杖は先が細く、逆に大きくなっている尻のほうには大きい透明な石が嵌め込まれていました。
大王はまず、杖の細いほうで床に丸い円を描きました。すると、描いた軌跡がきらきら光ります。
それから杖の尻で描いた円をとんとんと叩くと、たちまちそこから闇色の渦が滲みだして円を塗りつぶしました。
「これは」
鬼男はあっけにとられ、黒い渦を巻く円の縁にしゃがんで、中を覗き込みました。大王は偉そうにふんぞり返ります。
「秘密道具その八、千里眼。 いや最近買ってきたんだけど、それにしてもすごい高かったんだから」
そうして、えいっと閻魔大王がもう一度杖の尻で淵を叩くと、渦まいていた円はとたんにクリアになっていき、土の道を駆けもどってゆくベルさんの頭が現れました。つまり視点はベルさんを頭上から見下ろしている状態です。
「ああ、この人」鬼男がつぶやきます。
「現世へ戻るつもりみたいだね、」
無駄だというのに。と大王は一息ため息をつき、床に杖の先をとんと置きました。杖の先を固定したままで、上だけぐるぐると動かせば、それに反応して円の中の視点がかわり、自由にあたりが観察できるという寸法です。
閻魔大王にしては気の利くもの持ってるじゃないか、という言葉をひっこめて、鬼男は閻魔の杖を奪います。「いまどの辺りを、」と道の先に視界をあわせると、すでに川は目前でした。
ベルさんの必死な表情を見て、鬼男はどうしようもなくやるせない気持ちになりました。

 


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(07.03.22)